【難波の堀江】百済の聖明王より賜った金銅仏が善光寺の御本尊に!【善光寺縁起】

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明日香と飛鳥時代が好きなみくるです。

今回は飛鳥の豊浦寺から信濃の善光寺に行かれた仏様のお話です。

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甘樫丘から飛鳥時代の始まりの地、向原寺(豊浦寺跡)へ

飛鳥時代の始まりの地、向原寺豊浦寺跡)へは、甘樫丘から北西の豊浦休憩所方面に降りて向かいました。

甘樫丘北西麓の豊浦休憩所

向原寺に向かう途中で「すすぎの瀧」と書かれた石碑を見つけました。

すすぎの瀧の石碑

グーグルマップに「すすぎの滝」と表示があるものの、何の情報もなく、写真だけ撮って通り過ぎました。

難波池は日本書紀に記述のある【難波の堀江】

すすぎの瀧の石碑を見てしばらく歩くと、池と祠が見えて来ました。

難波池(なにわいけ)と難波神社(なにわじんじゃ)です。

難波池の祠
難波池

難波池の由来

向原寺(豊浦寺)の一角に「難波池」と称される池がある。
この池は、『日本書紀』欽明天皇13年仏教伝来の記事に廃仏派の物部尾輿もののべのおこしが仏像を投げ込んだ難波の堀江であるとの伝来をもつ。

そして後世の記録にはこの仏像が信濃(長野県)の善光寺に祀られたという善光寺縁起として語りつがれている。

難波池の解説板
難波池の由来

豊浦寺跡の解説板にも同様に書かれています。

552年(欽明天皇13年)百済の聖明王が朝廷に献上した金銅の釈迦仏(日本初渡来の仏像)を蘇我稲目がたまわり、向原の家を清めて寺としたのが始まりで日本初の寺とされている。

しかし、その後疫病が流行した時、災害は仏教崇拝によるという理由で、物部氏により仏像は難波の堀江に捨てられ、寺は焼却されたという。

豊浦寺跡の解説板
豊浦寺の解説板

『日本書紀』の欽明天皇13年の項に次のようにあります。

後に国に疫病が流行り、人民に若死する者が多かった。
それが長く続いて手立てがなかった。

物部大連尾輿もののべのおこしむらし中臣連鎌子なかとみのむらじかまこは共に奏して、
「あのとき、おみの意見を用いられなくて、この病死を招きました。今、元に返されたら、きっと良いことがあるでしょう。仏を早く投げ捨てて、後の福を願うべきです」
と言った。
天皇は、
「申すようにせよ」
と言われた。

役人は仏像を難波なにわの堀江に流し捨てた。

日本書紀・日本語訳「第十九巻 欽明天皇」 | 古代日本まとめ (kodainippon.com)

向原寺(豊浦寺跡)です。

向原寺

(参考)
難波の堀江といわれる水路は、大阪の難波にもあります。

『日本書紀』の仁徳11年の項にこうあります。

宮の北部の野を掘って、南の水を導いて、西の海(大阪湾)に入れた。
その水を名づけて堀江ほりえといった。

日本書紀・日本語訳「第十一巻:仁徳天皇」 | 古代日本まとめ (kodainippon.com)

ですが、ここでいう難波の堀江は、そんな遠くまで捨てに行かないでしょうから、大阪のことではないと思われます。

飛鳥から信濃に行かれた仏様【善光寺縁起】

疫病が流行しているのは仏像を祀っているからだと廃仏派の物部氏が主張したことにより、百済の聖明王より賜った仏像は、難波の堀江に捨てられてしまったわけなのですが、その仏像が信濃の善光寺に祀られているという逸話が『善光寺縁起』に見られます。

『善光寺縁起』とは、善光寺御本尊の故事来歴をつづった霊験譚です。
平安時代末期には全国的に広まっていたといわれ、多くの人々の信仰を集めました。

善光寺縁起 物部氏と蘇我氏
逸話|善光寺 (zenkoji.jp)

欽明天皇十三年(552年)、尊像は日本国にお渡りになりました。宮中では聖明王から献ぜられたこの尊像を信奉すべきか否かの評議が開かれました。
大臣・蘇我稲目は生身の如来様であるこの尊像を信受することを奏上し、大連・物部尾輿、中臣鎌子は異国の蕃神として退けることを主張しました。
天皇は蘇我稲目にこの尊像をお預けになりました。稲目は我が家に如来をお移しし、やがて向原の家を寺に改め、如来様を安置し、毎日奉仕いたしました。これが我が国仏教寺院の最初である向原寺といいます。

逸話|善光寺 (zenkoji.jp)
難波池に捨てられた仏像
逸話|善光寺 (zenkoji.jp)

この頃、国内ではにわかに熱病が流行りました。物部尾輿はこれを口実として、天皇に「このような災いの起こるのは蘇我氏が外来の蕃神を信奉するために違いありません」と申し上げ、天皇の御許しを得て向原寺に火を放ちました。

(中略)
ついに彼等は尊像を難波の堀江に投げ捨てました。その後、蘇我稲目の子・馬子は父の志を継ぎ、篤く仏法を信仰しました。

逸話|善光寺 (zenkoji.jp)
本田善光により引き上げられた仏像
逸話|善光寺 (zenkoji.jp)

その頃、信濃の国に本田善光という人がありました。ある時、国司に伴って都に参った折、たまたまこの難波の堀江にさしかかりました。すると、「善光、善光」と、いとも妙なる御声がどこからともなく聞こえました。そして、驚きおののく善光の目の前に、水中より燦然と輝く尊像が出現しました。

如来様は、善光が過去世に印度では月蓋長者として、百済では聖明王として如来様にお仕えしていたことをお話になりました。そして、この日本国でも多くの衆生を救うために、善光とともに東国へお下りになられることをお告げになりました。善光は歓喜して礼拝し、如来様を背負って信濃の我が家に帰りました。

逸話|善光寺 (zenkoji.jp)

金銅仏を洗い清めた【すすぎの滝】

すすぎの滝には、本田善光さんが難波の堀江より引き上げた金銅仏を洗い清めた滝との伝承が残っています。

すすぎの瀧の石碑

草木が生い茂っていて分からなかったのですが、石碑の右手に階段があり、降りて行くと祠があるそうです。

難波の堀江に流し捨てられた金銅仏は、本田善光さんに引き上げられ、すすぎの瀧で洗い清められました。
その金銅仏は現在、長野の善光寺の御本尊となっておられます。

『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。

この仏像は、仏教という新しい宗教を受け入れるか否かを巡る崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。その後、信濃国国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642)現在の地に遷座されました。

皇極天皇三年(644)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。

善光寺 (zenkoji.jp)

すすぎの瀧について調べたことにより、善光寺の逸話を知り感動しました。

日本仏教は飛鳥から始まり、全国に広がったのでした。

善光寺は一光三尊阿弥陀如来様を御本尊として、創建以来約1400年の長きにわたり、民衆の心の拠り所として深く広い信仰を集めています。

善光寺の本堂(国宝)
善光寺の本堂(国宝)

向原寺(豊浦寺跡)については、こちらも合わせてご覧ください。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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