橿原市の史跡を巡る【法輪寺(軽寺跡)】藤原道長も宿にした大寺~石川池周辺を歩くその3

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マップを見ながら古代の史跡をめぐるのが好きなみくるです。

今回は橿原市観光協会さんの観光パンフレット「橿原まちあるきまっぷ~石川池周辺を歩く」に掲載されている 法輪寺(軽寺跡)」をご紹介します。

橿原まちあるきまっぷ~石川池周辺を歩く

橿原市の史跡を巡る【石川池周辺を歩く】橿原神宮前駅~石川池(孝元天皇陵)

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高台に建つ大寺であった「軽寺」

軽寺の創建と出土遺物

軽寺は橿原市大軽町の法輪寺周辺にあった寺院で、現在は法輪寺と傍に春日神社が建っています。

軽寺跡

『日本書紀』朱鳥元年(686年)8月の条に「桧隈寺軽寺大窪寺各封百戸限三十年」(桧隈寺・軽寺・大窪寺それぞれに30年を期限として寄進する)と、封戸百戸が施入された記録が残ります。

法輪寺(軽寺跡)

出土瓦から飛鳥・藤原京時代の創建と考えられ、「飛鳥池工房遺跡」からは寺名を記した天武朝の木簡が出土しています。

軽寺跡の説明板

説明板の記述を引用します。

軽寺跡

 寺の創立年代は、明確にされてないが、寺跡から飛鳥時代後期、あるいは白鳳時代前期と思われる古瓦が発見されている。日本書紀には天武天皇朱鳥元年(686)に軽寺という記事があって、寺の存在がわかる。
 創立者は、加留大臣玄理かるのおととくろまろで、推古天皇の時唐から持ち帰った薬師如来像を本尊とし軽寺を建てたといわれている。
 寺観などは全く不明であるが、平安時代中期、関白藤原道長が吉野詣りをしたとき、この寺を宿としている。当時付近には久米寺、大窪寺などの大寺があるにもかかわらず、この寺を宿としたほどであるから、相当な規模を持って栄えていたものと思われる。

軽寺跡の説明板

「光る君へ」で注目の藤原道長も宿泊

説明板にある藤原道長が宿としたという記録は、藤原道長が記した日記『御堂関白記』の寛弘2年(1005年)の記述によります。

『御堂関白記』は自筆本14巻、古写本12巻が伝わり、国宝に指定されています。現存する世界最古の直筆日記です。

折しも、2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」を毎週楽しみに鑑賞しているので、ここに道長が宿泊したと知り嬉しく思いました。

御堂関白記
御堂関白記 – Wikipedia

話がそれますが、「光る君へ」で道長が書いている文字は、『御堂関白記』の文字をもとにデザインされたものです。

光る君への場面写真
「光る君へ」公式X

高向玄理

創立者として記載がある「加留大臣玄理」は、一般的には高向玄理たかむこのくろまろと記される人物のことです。

高向玄理は「げんり」とも読み、「黒麻呂」とも書きます。推古天皇16年(608年)、遣隋留学生として小野妹子に従って中国に渡り、舒明天皇12年(640年)に帰国しました。

留学中の推古天皇26年(618年)には、隋が滅亡し唐が建国されているので、32年間にわたり、隋の滅亡と唐の建国を見届けての帰国でした。

改新政府に参加して僧旻そうみんとともに国博士となり、律令官制を制度しました。白雉5年(654年)に遣唐押使として入唐し、唐で客死しました。

新政府の中心にいた高向玄理が建てたという「軽寺」はさぞかし立派な大寺だったことでしょう。

軽寺跡があるのは、軽の高台です。

軽寺跡が建つ高台

高台からは賑わう「軽市かるのいち」が見渡せたのかもしれません。「いち」は朝廷が必要とする物資を調達する場であるほか、都の住人が物資を売買する場でもありました。

現在も残る金堂の土壇と礎石

主要伽藍は現在の法輪寺本堂を中心とした範囲と捉えられていますが、法輪寺境内に金堂および講堂と推定される土壇を残すのみです。

法輪寺の本堂です。

法輪寺の本堂

本堂の下の高まりが軽寺の金堂跡と推測される土壇です。この時は確認できなかったのですが、金堂の礎石が残っているそうです。

法輪寺の境内に残る軽寺の基壇

土壇の位置や地形から法隆寺式ではないかと考えられています。

また寺域は法輪寺本堂のある丘陵の一部が周辺より2~3メートルほど際立っており、寺域が及んでいた可能性があります。

軽寺跡の説明板には、創立者は加留大臣玄理とされていましたが、軽部臣かるべのおみ軽忌寸かるのいみきとみる説もあります。

○○寺跡と○○廃寺

仏教が百済より伝えられた時に政治の中心であった飛鳥から、日本の仏教は始まりました。
橿原市の史跡を巡る【本明寺(石川精舎跡)】仏教はここから始まった!?~石川池周辺を歩くその4

崇峻天皇元年(588年)に日本最初の本格的寺院である飛鳥寺の建立がスタートし、飛鳥とその周辺には多くの寺院が建立されました。飛鳥は日本列島の王都であり、仏教信仰の中心地としての仏都でもあったのです。

史料に伝わる寺院の中には所在が分からないものや、礎石がわずかに残るのみのものも多くあります。それらの寺院は「○○寺跡」「○○廃寺」と称する史跡となり保存されています。

今回ご紹介した「軽寺跡」のように「○○寺跡」と称されている寺院は、出土遺物や史料からそこにその名前の寺院があったことが確認されている寺院のことです。

以前にご紹介した「小山廃寺」はかつては「紀寺跡」と呼ばれ、そこに建っていたのは紀氏の氏寺、「紀寺」と考えられていましたが、発掘調査の結果「紀寺」とは別の寺院である可能性が高くなり、現在では「小山廃寺」と呼ばれています。

小山廃寺(紀寺跡)の説明板


天武朝の大寺の跡!?【小山廃寺(紀寺跡)】本薬師寺と対をなす寺院であった可能性も

○○廃寺」○○は小字名が用いられていいます。
史跡名を見ると、それがお寺の名前なのか、小字名なのかが分かります。

法輪寺(軽寺跡)へのアクセス

奈良県橿原市大軽町373

駐車場はありません。
近鉄橿原神宮前駅より徒歩11分です。

こちらの記事で石川池周辺の史跡をまとめてご紹介しています。