マップを見ながら史跡巡りをするのが好きなみくるです。
前回は、「山の辺の道美化推進協議会」さんが発行されている、観光パンフレット「山の辺の道」から、桜井市穴師の「纒向日代宮伝承地」をご紹介しました。
纒向日代宮は、第12代景行天皇が営んだ宮です。
今回は、「纒向珠城宮伝承地」をご紹介します。纒向珠城宮は、第11代垂仁天皇が営んだ宮です。
纒向珠城宮伝承地
垂仁天皇纒向珠城宮跡の石碑
垂仁天皇纒向珠城宮跡の石碑は、纏向日代宮伝承地より、穴師坐兵主神社の参道を西に下った畑の中に建っています。
『日本書紀』垂仁天皇2年10月の条に「さらに纏向に都をつくり、珠城宮といった。」との記述があります。
石碑の向こうに見えるのは、垂仁天皇の第3子の景行天皇の陵墓とされる「景行天皇陵(渋谷向山古墳)」です。
これより東方には、景行天皇が営んだ「纒向日代宮」伝承地もあり、南方には、箸墓古墳をはじめとする纒向遺跡が広がります。この纏向一帯は、初期ヤマト政権が誕生した、まさしく「クニの始まり」の地ということになります。
纏向日代宮伝承地からは、纏向遺跡と景行天皇陵を眺望できます。
垂仁天皇の事跡
垂仁天皇は、崇神天皇の第3子です。崇神天皇の崩御の翌年に即位され、都を纏向珠城宮に遷されました。
『日本書紀』には、様々な垂仁天皇の事跡が記されています。
- 最初の皇后の狭穂姫は、兄・狭穂彦の命令で、垂仁天皇を短刀で刺し殺そうとするも失敗します。垂仁天皇は狭穂姫を許そうとしましたが、兄と共に自害しました(狭穂彦王の謀反・狭穂姫の悲話)。
- 皇女・倭姫命に伊勢五十鈴川のほとりに天照大御神を祀った祠を建てさせました。これが、伊勢神宮の始まりです。
- 二番目の皇后の日葉酢媛命が崩御された際に、野見宿禰の進言に従い、その陵墓には初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納されました。以降、殉死が禁じられ、古墳に埴輪が埋納されるようになりました。
相撲神社の手前に掲示されている説明板です。
纒向珠城宮伝承地
纒向珠城宮跡の石碑から少し東へ上った所にある「珠城山古墳群」の前には纒向珠城宮伝承地があり、「記紀万葉の物語 垂仁天皇の条」が書かれたボードが建っています。
2024年11月の撮影時には、劣化して読み辛くなっていたので、2020年11月に撮影したものを掲載しています。
纏向珠城宮伝承地
纒向珠城宮は、第11代垂仁天皇の営んだ宮とされています。
日本書紀によりますと、垂仁天皇の時、野見宿禰(ノミノスクネ)と当麻蹴速(タイマノケハヤ)とが天皇の前で初めて相撲をとったとされています。
この物語は、相撲発祥の物語として知られており、ここから東にある相撲神社は、その相撲が行われた地として伝えられています。
野見宿禰は、出雲の人で、天皇がそれまでの殉死の風習をあらためようとしたとき、替わりに埴輪を作ることを進言した人物としても記されています。
記紀万葉の物語(垂仁天皇の条)
纏向珠城宮伝承地の説明板
垂仁天皇の時、野見宿禰と当麻蹴速とが天皇の前で初めて相撲をとったとされる相撲神社は、穴師坐兵主神社の摂社です。
穴師坐兵主神社と相撲神社は、この道を東へ800mほど行った先にあります。
カタヤケシの由緒
珠城山古墳群から少し西に下った辺りに山の辺の道の地図と石碑が建っています。向こうに見えるのは三輪山です。
石碑には何やら漢字がびっしりと刻まれているのですが、何が書かれているのか分かりませんでした。
地図は桜井周辺の案内図です。穴師坐兵主神社と相撲神社の位置も示されています。
穴師坐兵主神社の現代の境内は元々は「穴師大兵主神社」の鎮座地でした。
「国技(相撲)発祥の地 カタヤケシ」とある「カタヤケシ」は相撲神社が鎮座する場所の小字名で、古語で角力(すもう)場を指す「カタヤ(方屋)」という言葉が由来です。
現在でも、競技者が控える場所を「カタヤ(方屋・片屋・形屋)」といい、力士が土俵に入ることを「方屋入」といいます。
相撲神社の境内に「カタヤケシ由緒」が書かれた説明板が建っていました。
垂仁天皇の時代(3世紀後半から4世紀前半頃)に、相撲が発祥した地の小字名が現在でも残っているのですね。地名の由来を知るのは大変興味深いです。
垂仁天皇纒向珠城宮跡のへのアクセス
奈良県桜井市巻野内420
駐車場はありません。
JR巻向駅より徒歩10分ほどです。
最後までお読み頂きありがとうございます。