秋の山の辺の道を歩く【纒向日代宮伝承地】景行天皇と日本武尊の物語~纏向遺跡を見渡しながら

※当サイトではアフィリエイト広告を利用しています。

マップを見ながら史跡巡りをするのが好きなみくるです。

今回は、「山の辺の道美化推進協議会」さんが発行されている、観光パンフレット「山の辺の道」から、桜井市穴師の「纒向日代宮伝承地まきむくひしろのみやでんしょうち」をご紹介します。

観光パンフレット「山の辺の道」

纒向日代宮まきむくひしろのみやは、第12代景行天皇けいこうてんのうが営んだ宮です。

スポンサーリンク

纒向日代宮伝承地

纒向日代宮跡の石碑

纒向日代宮跡の石碑は、山の辺の道から少し東へ外れた、穴師坐兵主神社あなしにますひょうずじんじゃの参道沿いに建っています。

この道を東へ進むと、穴師坐兵主神社があります。

穴師坐兵主神社は、奈良県桜井市穴師に鎮座する古社です。延喜式神名帳に記載ある式内社の中において名神大社・大社・小社に格付けされる3社が集結した、特別に霊験あらたかな神社です。

大和平野の東の高台にあり、参道からは纏向遺跡を見渡せます。

纒向日代宮跡の石碑は、その美しい場所に建っています。

スポンサーリンク

景行天皇と日本武尊(ヤマトタケルノミコト)

景行天皇けいこうてんのうは、第11代垂仁天皇すいにんてんのうの第三皇子で、日本武尊やまとたけるのみことの父です。纒向遺跡付近に都したと伝えられる最後の天皇で、4世紀前半から中期に在位したとされます。日本列島の統一を進めるために地方支配の強化や遠征活動を行いました。

景行天皇の『日本書紀』での名前は「大足彦忍代別天皇おおたらしひこおしろわけのすめらみこと」です。一説では、邪馬台国を統治した卑弥呼の弟とも言われています。

景行天皇の皇子「日本武尊」は、日本の歴史の中でも伝説的英雄として語られます。

『古事記』によると、日本武尊は景行天皇に九州を支配する豪族・熊襲建くまそたけるの討伐を命じられ、熊襲建を破って都に戻ると、今度は東征を命じられ関東を制圧しました。日本武尊の活躍でヤマト政権の支配領域が拡大したことになります。

景行天皇は日本武尊が平定して国々を巡幸したのち、崩御されました。

纒向日代宮

纒向日代宮まきむくひしろのみやは、第12代景行天皇が営んだ宮です。

景行天皇纒向日代宮跡の石碑の横に、穴師坐兵主神社の社伝が書かれていました。

「景行天皇は、即位後この地に宮を設け、大和朝廷による全国統一を進められた。その立役者は皇后の播磨稲日大郎姫との間に生まれた日本武尊である」と解説されています。

また、景行天皇は「ホツマツタエを、三輪君の祖となる大直根子おおたたねこに命じて編纂させ、後世に遺した」と伝わるようです。

スポンサーリンク

纒向日代宮伝承地からの眺望

纒向日代宮跡の石碑のある場所から、東へ少し登った眺めの良い場所に休憩スペースがあり、纒向日代宮伝承地の解説板が建っています。

解説板には、「記紀万葉の物語(景行天皇の条)」が記されています。

纒向日代宮伝承地

纒向日代宮は、第12代景行天皇が営んだ宮です。

記紀によりますと、景行天皇の時、皇子の小碓尊(オウスノミコト)、別名、倭建命(ヤマトタケルノミコト)が活躍したとされています。

倭建命は、天皇の命を受けて大和に従わない九州の熊襲(クマソ)や出雲の国へ、一度帰朝してまた東の国々へと遠征を重ね、次々に服従させていったという古代の英雄です。

「大和は国のまほろば たたづく青垣 山ごもれる 大和し美し」は、命が遠征の帰途、病を得て亡くなる時に、ふるさと大和への思いを詠まれた歌の一節とされています。

纒向日代宮伝承地の解説板

ここからは、纏向遺跡まきむくいせき景行天皇陵を眺望できます。

纏向遺跡は、初期ヤマト王権発祥の地として、あるいは邪馬台国の東の候補地として全国的にも著名な遺跡です。

遺跡の範囲は古代からの信仰の山、三輪山を背にして、このあたりの山脈から西方を望む地域一帯に広がっています。

山の辺の道から見る三輪山です。

景行天皇陵(渋谷向山古墳)

景行天皇陵(渋谷向山古墳)は、天理市渋谷町しぶたにちょうにある前方後円墳です。日本武尊やまとたけるのみことの父と伝えられる第12代景行天皇の陵墓とされ、「景行天皇山邊道上陵けいこうてんのうやまべのみちのへのみささぎ」として宮内庁により管理されています。地区の名を取って「渋谷向山古墳」とも呼ばれています。

スポンサーリンク

纒向日代宮跡へのアクセス

奈良県桜井市穴師447

観光パンフレット「山の辺の道」に纏向遺跡の範囲が示されていました。このあたり一帯の広い範囲に纏向遺跡が広がっていることが分かります。

最後までお読み頂きありがとうございます。

スポンサーリンク