【山の辺の道の歌碑めぐり】光孝天皇が布留の滝を訪れた時に僧正遍照が詠んだ歌(奈良県天理市)

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景色を楽しみながら歌碑を訪ね歩き、いにしえの歌人の思いに触れるのが好きなみくるです。

日本最古の道「山の辺の道」には38基もの歌碑が建てられています。全部を見つけたいと思っています。

観光パンフレット「山の辺の道」
観光パンフレット「山の辺の道」

今回は、観光パンフレット「山の辺の道」に掲載されている中から、3番の僧正遍照の歌碑をご紹介します。

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石上神宮南側の僧正遍照の歌碑

僧正遍照の歌碑は、奈良県天理市の石上神宮の境内から山の辺の道を南へ向かう途中にあります。

山の辺の道(南)コースの案内図

山の辺の道(南)コースは、山裾に沿うように桜井方面へ続くコースで、年間を通して最も人が訪れます。

山の辺の道(南)コース

中でも、石上神宮から大神神社までは、二上山や青垣の山々を眺めながら神話と伝説の世界に浸れる、山の辺の道のハイライトコースです。

僧正遍照の歌碑は、石上神宮の境内からすぐの所に建っています。

山の辺の道の僧正遍照の歌碑
山の辺の道の僧正遍照の歌碑

『古今和歌集』巻第四、秋歌上に収録されている歌です。

(詞書)
仁和のみかど、みこにおはしましける時、布留の滝御覧ぜむとておはしましける道に、遍照が母の家にやどりたまへりける時に、庭を秋の野につくりて、おほむものがたりのついでによみてたてまつりける

さとはあれて 人はふりにし やどなれや
庭もまがきも 秋ののらなる

古今和歌集 巻4-248 僧正遍照

(現代語訳)
光孝天皇が親王であった時、布留の滝をご覧になりに行く途中、遍照の母の家に泊まり、秋の野に見立てて造った庭で天皇をまじえていろいろと皆で話をした時に詠んだ歌

里は荒れており、家の女主人(遍昭の母)も年老いてしまった住まいだからなのでしょう。庭と言わず、垣根といわず、一面に秋の野良でございます。

(語義)
仁和のみかど…光孝天皇
布留の滝…大和国山野辺郡石上の布留にある滝
遍昭が母…遍昭の父は桓武天皇の皇子、大納言良岑安世。母はその未亡人。

「さとは荒れて 人はふりにし」 という部分に「布留(ふる)の里-ふるさと」を含めています。

「さとは荒れて」としているのは、帝に対して卑下しているのかと思ったのですが、意図的に秋の趣を作るために荒れた風情としているとのことです。

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布留の滝

布留の滝」は、奈良県天理市の大国見山(桃尾山)の山中に位置する落差23mの「桃尾の滝」のことです。

桃尾の滝(布留の滝)

第88代後嵯峨天皇が鎌倉時代に桃尾の滝を訪れて詠まれた歌が残っています。

今はまた 行きても見ばや 石の上
ふるの滝津瀬 跡をたづねて

元禄元年(1688年)には松尾芭蕉も訪れています。光孝天皇が親王であった時にも訪れられているのですね。

桃尾の滝は、パワースポットとしても人気で、夏は涼を求める多くの人で賑わいます。

僧正遍照と良因寺(石上寺)

天理市観光協会さんの観光ガイド「いにしえの歌碑めぐり」に、僧正遍照は天理市にゆかりの深い偉人として紹介されています。

こちらの記事では、僧正遍照が僧となって居を構えていた「厳島神社(良因寺・石上寺)」をご紹介しています。

僧正遍照は、京都市山科区北花山河原町の元慶寺がんけいじを建立し、仁和元年(885年)に僧正となり、花山僧正と呼ばれるようになりました。

良因寺(石上寺)は、遍照の入寂後に、息子の素性法師が住持となっています(良因院)。母も息子も天理市に住んでいたのですね。

素性法師の歌碑は、天理市布留町の「恵比寿神社」の境内に建っています。

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石上神宮へのアクセス

奈良県天理市布留町384

秋の山の辺の道を歩く

今回は、「天理市営駐車場山の辺の道(杣之内)」から、山の辺の道を北へ、石上神宮まで歩きました。

「天理市営駐車場山の辺の道(杣之内)」周辺マップ

途中、内山永久寺跡に立ち寄りました。

内山永久寺跡から石上神宮までは700mほどです。

僧正遍照の歌碑はこの道標で曲がった先の

山の辺の道の道標(内山永久寺から石上神宮)

この道の先に建っていました。

山の辺の道(南)コース

石上神宮の境内には1番の柿本人麻呂の歌碑が建っています。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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