マップを見ながら史跡巡りをするのが好きなみくるです。
今回は、「山の辺の道美化推進協議会」さんが発行されている、観光パンフレット「山の辺の道」から、奈良県桜井市穴師に鎮座する「穴師坐兵主神社」をご紹介します。
延喜式神名帳に記載ある式内社の中において名神大社・大社・小社に格付けされる三社が集結した、特別に霊験あらたかな神社です。

山の辺の道から300メートル程東へ、なだらかな坂を上ると神社の鳥居が見えて来ます。

「相撲発祥の地」と言われている「相撲神社」は、穴師坐兵主神社の境内摂社です。

三社が集結した古社「穴師坐兵主神社」
穴師坐兵主神社の概要
穴師坐兵主神社は、奈良県桜井市穴師に鎮座する古社です。
元は穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(式内小社)の3社で、室町時代に合祀されました。現鎮座地は穴師大兵主神社のあった場所です。

社伝によると、本社は崇神天皇の時代、倭姫命が天皇の御膳の守護神として奉祭せられたといいます。 元々、弓月岳にあった穴師坐兵主神社(上社)が、応仁の頃に焼失し、現在地に鎮座していた穴師大兵主神社(下社)に合祀され、同じく巻向山にあった巻向坐若御魂神社も合祀されて、現在のような祭祀形態となったと思われます。
穴師坐兵主神社の旧鎮座地とされる「弓月岳」の具体的な場所は竜王山、穴師山、巻向山の3説があり、特定されていません。
夏至の時期に弓月岳から昇る太陽が箸墓古墳と一直線に並ぶとされ、古代の暦や稲作に関わる信仰の場だった可能性があります。
社紋は「橘」で、田道間守との関連が指摘されています。

穴師はみかん栽培の発祥の地
『日本書紀』『古事記』に、「田道間守は、垂仁天皇の命により不老不死の霊薬『非時香菓(現在のやまとたちばな)』を求め、常世国に遣わされ、十年の歳月を経て持ち帰った」と記されています。
持ち帰った「やまとたちばな」が最初に植えられた場所が当時の宮殿(皇居)、現在の桜井市穴師でした。
穴師坐兵主神社の御祭神
穴師坐兵主神社の御祭神は、若御魂神(わかみたまのかみ)、兵主神(ひょうずしん)、大兵主神(だいひょうずしん)です。
元の穴師坐兵主神社の御祭神の「兵主神」は、現在は中殿に祀られ、鏡を御神体とします。神社側では兵主神は御食津神であるとしていますが、素戔嗚尊とする説など諸説あります。
巻向坐若御魂神社の御祭神「若御魂神」は稲田姫命のことであるとされます。元は巻向山中にありました。現在は右社に祀られ、勾玉と鈴を御神体とします。
穴師大兵主神社の御祭神の「大兵主神」は現在は左社に祀られ、剣を御神体とします。大兵主神の正体については、八千戈命(大国主)、素盞嗚命、天鈿女命、天日槍命という説があります。

穴師周辺には弥生時代以降の製鉄遺構があり、大兵主神が天日槍命(新羅系渡来人の神)とする説は、鉄生産との関連を示唆しています。
穴師坐兵主神社の御由緒
社伝によると、崇神天皇60年または垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として奉祭したのが始まりとされます。創建年代は明確ではありませんが、奈良時代の『正倉院文書』に天平2年(730年)の神祭の記録があり、貞観元年(859年)に正五位上の神階が授けられたと記録されています。

元々は穴師坐兵主神社(上社)、穴師大兵主神社(下社)、巻向坐若御魂神社の三社が別々に存在していましたが、室町時代の応仁の乱(1467年頃)で上社と巻向坐若御魂神社の社殿が焼失したため、穴師大兵主神社の地に合祀されました。現在の社地は穴師大兵主神社の元の場所です。
「穴師」は鉄鉱石の採掘や製鉄に関わる人々を指すとする説や、風の神を祀る地名に由来する説があります。柳田国男は「穴師の山(巻向山か?)」が風の神の信仰地だったと考察しています。
穴師坐兵主神社の境内の様子
一の鳥居
穴師坐兵主神社の一の鳥居は、境内の西方約1.5km、巻向駅のすぐ北東の道沿いに西向きに建っています。

一の鳥居の傍らには「正一位穴師大明神」と刻まれた社号標が建っています。

社号標は、神社の入口や境内に設置される石碑、標柱、または看板で、神社名や祭神の尊称を記したものです。神社の名称、格式、由緒を参拝者に示す役割を持ちます。
「正一位〇〇大明神」などの記載が増えたのは江戸時代なので、こちらの社号標は江戸時代に建てられたものかもしれません。
鳥居から境内へ続く道が東へ伸びています。なだらかな坂道です。

国道169号線が横切り、辻北の交差点には「相撲発祥の地 相撲神社」の看板が出ています。ここから約1kmです。

この辺り一帯には、纏向遺跡がありました。

纒向遺跡は、初期ヤマト政権発祥の地として、あるいは西の九州の諸遺跡群に対する邪馬台国 東の候補地として全国的にも著名な遺跡です。
二の鳥居と付近の景観
一の鳥居から二の鳥居までの途中、景行天皇の纒向日代宮跡や、垂仁天皇の纒向珠城宮跡があり、当地一帯が三世紀~四世紀頃の大王の拠点だったことが窺えます。

穴師坐兵主神社は、大和盆地の東側の、古代の大和文化の中心地に位置していることになります。

鳥居前から振り返る景色は、大変美しく心が洗われます。

纏向遺跡が栄えていたころの古代の都市を再現し、イメージ図にしたものです。ここにこのような景観が広がっていたのかと思うと、古代ロマンを感じてワクワクしました。

参道
二の鳥居をくぐってさらにしばらく東へ進んでいくと、大きな杉や楓などの樹木に覆われた森が広がっています。

その中に参道が伸びて入口に一対の灯籠が建っています。ここが境内入口となります。

社叢は様々な樹種がありますが楓も多く、秋には赤く色づき紅葉を楽しめるそうです。
参道途中、左側(北側)に手水舎が建っています。

手水舎の向こうにも灯籠が建ち、その前に狛犬が配置されていました。

可愛らしい形をしているので目が留まりました。

社殿
参道を進んでいくと広い空間に至り、この左側(北側)の石段上、玉垣奥の土地の高くなった空間に社殿が南向きに並んでいます。

青紅葉の見事な様子からも、紅葉の美しさが推し量れます。

石段正面に建つ拝殿は桟瓦葺の平入入母屋造で唐破風の向拝の付いたもの。桁行七間の横に長い優美な建築です。

拝殿後方の石垣上、透塀に囲まれて三棟の本殿が並んでいます。本殿はいずれも銅板葺の一間社流造で千鳥破風と軒唐破風の付いたものです。

中殿に穴師坐兵主神社の「兵主神」を、右殿に巻向坐若御魂神社の「若御魂神」を、左殿に穴師大兵主神社の「大兵主神」を祀っています。

境内摂社
本社拝殿の右側(東側)の森の中にいくつかの境内社が鎮座しています。

この森の入口に「須佐之男社」が南向きに鎮座しています。社殿は銅板葺の大社造です。

この森の奥の左側(北側)の斜面上に、立ち入ることはできませんが三社の境内社が南向きに鎮座しています。最も左側(西側)の境内社は完全に朽ち果て倒壊しており、基壇と残骸のみがある状態となってしまっています。社名・祭神は不明です。

境内の南側、本社社殿の向かいとなる森の中にも境内社が鎮座しています。
この森の入口となる石段を上ってすぐ右側(西側)に「天王社」が東向きに鎮座しています。社殿は銅板葺の一間社春日造です。

天王社の向かい側(東側)、石段の上に境内社が西向きに鎮座しています。社名・祭神は不明。社殿は銅板葺の一間社春日造。社殿の東側と南側にのみ塀が設けられています。

穴師坐兵主神社の万葉歌碑
穴師坐兵主神社の拝殿の右奥の、玉垣の下に南面して万葉歌碑が建っています。

(読み下し)
天雲に 近く光りて 鳴る神の
見れば畏し 見ねば悲しも
万葉集 巻7-1369 作者未詳
揮毫者 会津 八-
恋に悩む女性の心情を雷に寄せて詠んだ歌です。揮毫者の会津八一氏の経歴から、この歌を選んだ理由を推察すると興味深いことが分かりました。
相撲神社
二の鳥居の少し手前側に「相撲発祥の地」と記した顔はめ看板があり、この右側(南側)一帯は広い平地となっています。

その入口に相撲神社の鳥居が建っています。

相撲神社は、穴師坐兵主神社の神域内にある境内摂社で、垂仁天皇の御代に、ここで日本初の天覧相撲が行われたことから、「相撲の発祥の地」と言われています。

相撲神社については、こちらの記事でご紹介しています。
穴師坐兵主神社へのアクセス
奈良県桜井市穴師493
穴師坐兵主神社の鳥居をくぐった右手に、相撲神社の駐車場があります。

穴師坐兵主神社の参道の途中にも、駐車スペースがあります。

こちらの記事では、穴師坐兵主神社から西に下った先にある、景行天皇の纒向日代宮跡をご紹介しています。
今回の記事でご紹介した「纏向遺跡が栄えていたころの古代の都市を再現したイメージ図」は、こちらにありました。右手に見えるは景行天皇陵です。

最後までお読み頂きありがとうございます。