ヤマトタケルが最後に偲んだ倭【天理市渋谷町の鎌砥池】倭は国のまほろば(山の辺の道)

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マップを見ながら史跡巡りをするのが好きなみくるです。

こちらの記事では、「山の辺の道美化推進協議会」さんが発行されている、観光パンフレット「山の辺の道」から、桜井市穴師の「纒向日代宮伝承地まきむくひしろのみやでんしょうち」をご紹介しました。

纒向日代宮まきむくひしろのみやは、第12代景行天皇けいこうてんのうが営んだ宮です。

今回は、景行天皇の皇子の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の物語と、死を前にした皇子が詠んだ歌と、偲んだであろう大和の美しい青垣の山々をご紹介します。

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ヤマトタケルが最後に偲んだ倭

ヤマトタケルとは

ヤマトタケルは第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたります。熊襲くまそ征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄です。

日本武尊と 川上梟帥。月岡芳年画
ヤマトタケル – Wikipedia

『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記されます。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用されます。

ヤマトタケルノミコトの物語

ヤマトタケルノミコトの説話は、『古事記』と『日本書紀』の両方で詳しく語られています。大筋は同じですが、主人公の性格や説話の捉え方や全体の雰囲気に大きな差があります。

『古事記』は浪漫的要素が強く、豪胆な主人公や父天皇に疎まれる人間関係から来る悲劇性が濃いものになっています。『日本書紀』は天皇賛美の傾向が強く、父の天皇に忠実で信頼も厚いと書かれています。

『古事記』と『日本書紀』を照らし合わせて理解するのは難解でしたので、奈良県の公式サイトに掲載されている「悲しき勇者・ヤマトタケルノミコト」を引用させて頂きます。簡単にまとめられていて分かりやすいです。

第9話「悲しき勇者・ヤマトタケルノミコト」

倭建命(やまとたけるのみこと)の物語は、『古事記』の中でも、最もよく知られたもののひとつではないでしょうか。

景行天皇の息子・小碓命(おうすのみこと)は、とても気性が荒い少年でした。それを恐れた天皇は彼を遠ざけようと、西国に行って熊曾建(くまそたける)兄弟を討つよう命じます。まだ幼い小碓命は、わずかの兵をつれて西へと旅立ちます。

熊曾建兄弟の館は、多くの兵士によってかたく守られていました。そこで小碓命は、たばねていた長い髪をたらし、叔母からもらった衣装を身にまとって少女になりすますと、宴の時を見はからって館へ。美しい少女の姿にすっかり浮かれた兄弟のすきをついて、小碓命は一気に兄を刺し殺し、続いて逃げる弟を追い詰めます。弟は「西方に敵なしのわれら兄弟をしのぐ強者が、大倭(おおやまと)の国にはいたようだ」と武勇をたたえ、「倭建命」の名をさずけました。

みごと西方征伐を果たした倭建命でしたが、天皇はその労をねぎらうことなく、さらに東方への遠征を命じます。「父は、わたしに『早く死ね』とお思いなのだろうか? 西方征伐より帰って間もない私に、今また、兵卒も与えられず東方へ行けとおっしゃる。父は、わたしの死を願っておられるのか…」倭建命は涙にくれ、叔母に打ち明けるのです。

東国遠征は、苦難の連続でした。相武国(さがむのくに=神奈川県)では、野原の中で国造(地方官)の火攻めにあいます。また、走水の海(浦賀水道)では、海峡の神が荒波を起こして行く手をはばみました。この時、后の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は「倭建命さま、どうか立派に役目を果たし、大倭の地にお帰りくださいませ」と言い残し、みずから海に入って荒波をしずめます。

その後、東国の勇敢な神や人々を下した倭建命ですが、都へ帰る途中、伊吹山の神を討ちに行き、逆に大氷雨を浴びせられます。倭建命は瀕死の体で都を目指しますが、ついに能煩野(のぼの=三重県)で力尽きました。

倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるわし
──倭は、国の中でもっともすばらしい場所だ。青々とした垣根のように重なりあった山々が取り囲む、うるわしき我がふるさとよ。

胸にあるのは、望郷の想いか、父への無念か。その最期に数首の歌をよみ終えた倭建命は、能煩野の地で短い命を終えました。哀しき勇者の魂は、大きな白い鳥となって空を駆け上がり、西方へ飛び立ったといいます。

第9話 「悲しき勇者・ヤマトタケルノミコト」|なら記紀・万葉

ヤマトタケルが父に命じられて熊襲討伐に出たのは、まだ15歳くらいの時だったと言います。任を果たして大和に戻った彼を待っていたのは父の優しい言葉では無かった…。

父の愛を渇望したまま異国の地で力尽きた彼が詠んだのは、美しい倭を「まほろば」と寿ことほいだ歌でした。

「まほろば」は、「素晴らしい場所」「住みやすい場所」という意味の古語です。「聖なるもの」の名を歌に詠み、寿ぎ、その神秘性を称賛することは、繁栄を祈る意味を持っていました。

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天理市渋谷町の鎌砥池

天理市渋谷町しぶたにちょうに「鎌砥池」という景勝地があります。「鎌砥池」の読み方はそのまま「かまとぎいけ」でしょうか?調べましたが由来などは分かりませんでした。

鎌砥池は、崇神天皇陵から渋谷向山古墳(景行天皇陵)へ向かう途中にあります。

山の辺の道の案内板
観光パンフレット「山の辺の道」

そのまま景行天皇陵には向かわず、丘陵を上っていく坂道で、東に曲がります。

天理市渋谷町の鎌砥池へ向かう道

鎌砥池が見えて来ました。

天理市渋谷町の鎌砥池へ向かう道

美しい秋の空と山々を望める景観に胸が高鳴ります。

天理市渋谷町の鎌砥池
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ヤマトタケルが最後に偲んだ倭

鎌砥池の堤に「ヤマトタケルが最後に偲んだ倭」と書かれた説明板がありました。

鎌砥池の堤に「ヤマトタケルが最後に偲んだ倭」と書かれた説明板

「古事記 歌謡 倭建命」とありますが、『古事記』は、説話と歌とで構成されたまるでミュージカルのような物語だといいます。

「ああ、わが故郷…」

ヤマトタケルの物語のクライマックスが書かれています。

倭は 国のまほろば たたなづく 青垣
山隠れる 倭しうるわし

(現代語訳)
大和の国は、国々の中で最もよい国だ。重なり合って、青い垣をめぐらしたような山々、その山々に囲まれた大和は、美しい国だ。

鎌砥池の堤からは、ヤマトタケルが偲んだであろう大和の美しい青垣の山々が望めます。青垣は、大和平野から見える山々は青い垣根のように囲まれているという意味です。

鎌砥池の堤から望む、ヤマトタケルが偲んだであろう大和の美しい青垣の山々

右手に崇神天皇陵、左手に景行天皇陵。向こうには、二上山や葛城山といった金剛・葛城・生駒山系の山々が連なります。

大和平野の耳成山(手前)と畝傍山(向こう)も眺望できました。

鎌砥池の堤から望む青垣の山々(耳成山と畝傍山)

「倭は 国のまほろば」にまさに相応しい素晴らしい眺望です。ヤマトタケルが寿いだ倭の景観を大切に守りたいと思ったのでした。

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天理市渋谷町の鎌砥池へのアクセス

奈良県天理市渋谷町

駐車場はありません。

景行天皇陵の後円部を眺望できる山の辺道からは、徒歩13分ほどです。

山の辺の道から見る景行天皇陵の後円部

こちらの記事では景行天皇陵をご紹介しています。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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