山の辺の道沿いの神社仏閣や、雄大な古墳を見て歩くのが好きで、奈良県天理市によくでかけているみくるです。
今回は、天理市観光協会さんが作成された観光ガイドに掲載されている「山の辺の道を行く」から、「山の辺北エリア」のスポットをご紹介します。

「夢創」この地で生まれた歌詠みの創作は、今も山の辺の道を魅了する。
「山の辺の道北エリア」最初のスポットは、柿本氏の氏寺「柿本寺跡」です。

ここに、柿本氏の一族で、櫟本生まれと伝えられる歌聖「柿本人麻呂」の遺骨を葬ったという歌塚があります。
柿本氏の氏寺「柿本寺跡」と「歌塚」
和邇下神社
柿本寺跡は、国道169号線に沿いに建つ和邇下神社の鳥居をくぐり、参道を進んだ先にあります。

和邇下神社は「延喜式」にみえる古い神社です。もとは「和爾部」と「櫟井臣」の祖神とされる第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命と日本帯彦国押人命が祀られていたそうですが、現在は大己貴命(大国主命)、素盞鳴命、稲田姫命が祀られています。
和邇下神社については、こちらの記事でご紹介しています。
和邇下神社から柿本寺跡へ
和邇下神社の参道に、「大和國柿本寺跡」の看板があります。

奥に見える大きな石材は竜山石製で、和邇下神社が建つ「和邇下神社古墳」の石棺の一部(石棺の足跡か天井か?)と考えられています。

看板の前の道を西に進みます。

この先は児童公園になっていて、遊具が置かれています。
柿本寺跡
このあたり一帯が柿本寺跡になります。遊具で子供が遊んでいたので、全体を撮影できませんでした。

この向こう側に柿本人麻呂の石像が建っています。

柿本寺は出土の古瓦から奈良時代に創建されたと考えられます。
建武4年(1337年)、北朝軍が天王社(和爾下神社)や柿本寺に陣取って南朝軍と戦ったとの記録や、その前後に描かれた柿本宮曼茶羅(現在は奈良市学園前町の大和文華館が所蔵。重要文化財)が伝わっています。
寺は室町時代までに西へ約400m離れた、現在の櫟本小学校西側に移転しています。ここに移った年代は分かっていません。
江戸時代までは代々、学僧が出、和歌や茶の湯などが親しまれまれていましたが、明治初年に廃寺となりました。現在は鬱蒼とした森の中にぽつんと空間が広がっているだけで、寺の跡を示すものは何もありませんが、歌聖のゆかりの地として、大切に守られています。

柿本寺跡 創建:奈良時代?
このあたりにはかつて、柿本寺という寺がありました。この寺は名前の通り柿本氏の氏寺で、ここに柿本人麻呂の遺骨を葬ったのが今歌塚だといわれています。寺跡には今も礎石の一部が残っており、奈良時代の古互が採集されています。
文献では延久2(1070)年の『興福寺雑役免帳東諸部』にその名が見えるのが最初で、寿永2(1183)年の『柿本朝臣人麿勘文』に「春道社の杜の中に寺あり、柿本寺と号す」と記されています。南北町時代の建武4(1337)年には北朝軍の陣地がおかれました。
室町時代頃には現代の櫟本小学校西側の地に移転し、江戸時代には学僧が多く出て和歌や茶の湯に親しみました。明治時代の初め頃に廃寺となりましたが、南北朝時代前後に描かれた『柿本宮曼荼羅』ほかの寺宝が今に残されています。
なお、今の歌塚の碑は享保17(1732)年に森本宗範や柿本寺の僧らによって建立されたものです。
柿本寺跡の説明板
※天理観光協会さんのサイトには”歌聖・柿本人麿の遺髪を葬った「歌塚」があります”とあるのですが、ここでは、説明板の表記を採用して、「遺骨」としています。
※南北朝時代前後に描かれた『柿本宮曼荼羅』は、現在は奈良市学園前町の大和文華館が所蔵しています(重要文化財)。
柿本人麻呂と歌塚
治道山柿本寺は、もともと柿本氏の氏寺でした。
ここに柿本氏の一族、櫟本生まれと伝えられる「歌聖」柿本人麻呂の遺骨を葬ったという歌塚があります。

この歌塚は、享保17年(1732年)に柿本寺の僧や歌人によって建てられ、表面の文字は後西天皇の皇女宝鏡尼の筆によります。
人麻呂崇敬が盛んになるにつれ、歌塚として有名となりました。
『藤原清輔家集』(平安時代末期)に
「大和国石上柿本寺という所の前に人磨呂の塚ありと聞きて卒都婆に柿本人麻呂の塚としるしつけて傍にこの歌をなん書けり。世を経ても あふべかりける 契こそ 苔の下にも くちせざりけれ」
とあります。
柿本人麻呂像の傍らに、歌碑が建っていました。

この歌碑については、こちらの記事でご紹介しています。
多くの歌人が歌聖・柿本人麻呂の才にあやかろうとこの地に参拝されたのでしょう。
柿本人麻呂像とカエル
柿本人麻呂像を囲むようにカエルの石像が置かれていました。

背中に子カエルを乗せていたり、土管に足をかけていたりと、ユーモラスな姿をしています。
人麻呂を讃えるような歌碑も建っています。

人麿の御霊六蛙 蛙かな
詰まった詩歌もよみ蛙
柿本人麻呂の御利益で、どんな下手な歌も甦るということで、蛙なのでしょうか?人麻呂と蛙が見つめ合っているようで、人麻呂の御霊を迎えているかのようです。


カエルを詠んだ歌碑も建っていました。

生き蛙 無事蛙
使った金もまた蛙
還る、帰る、返ると蛙をかけているのですね。
ユーモラスな姿をした蛙に和みますが、どうして蛙なのか調べましたが分かりませんでした。地元の人は、単に語呂が良いからではないかと仰っているそうです。
向こうに見えるのは和邇下神社の案内図です。

和邇下神社の社殿が建つのは、和邇下神社古墳の後円部で、柿本寺跡となっている辺りは前方部にあたります。
柿本寺跡へのアクセス
奈良県天理市櫟本町2340-7
駐車場はありませんが、和邇下神社に参拝した折に立ち寄りましたので、和邇下神社の無料駐車場をそのまま利用させて頂きました。
国道169号線沿いに建つ鳥居から、駐車場までは車の通行はできませんので、東側からお回り下さい。

こちらの記事では、和邇下神社の参道に建つ「影姫あわれの歌碑」をご紹介しています。
最後までお読み頂きありがとうございます。