産まれも育ちも奈良県のみくるです。
『万葉集』が編纂された時代に政治の中心であった奈良県には、その地にゆかりのある多くの万葉歌碑が建っています。そんな奈良県を天理市観光協会さんの観光ガイド「いにしえの歌碑めぐり」を見ながら巡っています。
山の辺の道には柿本人麻呂、松尾芭蕉だけでなく、小野小町や僧正遍昭、龍王山城の武将・十市遠忠など天理にゆかりの深い偉人たちの歌碑がたくさん建てられています。これらを訪ね歩き、制覇する…なんていうのも天理のテーマウォーキングの楽しみです。
いにしえの歌碑めぐり | 天理観光ガイド・天理市観光協会
サイトを見て、私も天理にゆかりの深い偉人たちの歌碑を訪ね歩き、制覇したいと思いました。
今回は1番の「影姫あわれの歌碑」をご紹介します。歌碑は、天理市櫟本町にある和爾下神社の参道脇に建っています。

和爾下神社の「影姫あわれの歌碑」
櫟本地域の鎮守「和爾下神社」
和爾下神社は、「延喜式」にみえる古い神社です。
もとは「和爾部」と「櫟井臣」の祖神とされる孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命と日本帯彦国押人命が祀られていたそうですが、現在は大己貴命(大国主命)、素盞鳴命、稲田姫命が祀られています。
櫟本地域の鎮守で前方後円墳の上に建ちます。

東大寺山古墳群に属する「和爾下神社古墳」の後円部が境内になります。

和邇下神社については、こちらの記事で詳しくご紹介しています。
平群鮪と影姫」の悲恋の物語
『日本書紀』の中の歌謡として名高い歌に「平群鮪と影姫」の悲恋を歌ったものがあります。
平群鮪と影姫は相思相愛の仲でしたが、その頃皇太子であった後の武烈天皇が影姫に求婚したことから、悲しいお話が始まります。
海柘榴市の歌垣で、すでに影媛の心が鮪ものであり、叶わぬ恋と知った皇太子は、鮪を平城山に追いつめて殺し、さらに父の真鳥をも攻め滅ぼしてしまいました。

恋人の身を案じて山の辺の道を北へ追った影媛がそこで見たものは、愛する男の無惨な死でした。
「影姫あわれの歌碑」に刻まれた歌は、鮪の死を知った影姫が泣きながら歌った歌です。
影媛あわれの石碑
「影媛あわれの石碑」は、和邇下神社の参道脇に建っています。



石の上 布留を過ぎて 薦枕
高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ
春日 春日を過ぎ 妻隠る
小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り
玉盟に 水さへ盛り 泣き沽ち行くも
影媛あはれ
『日本書紀』武烈天皇即位前紀
現代語訳
布留を過ぎ、高橋を過ぎ、大宅を過ぎ、春日を過ぎ、小佐保を過ぎて、泣きぬれて葬列の後を追う影姫がかわいそうなことよ

この長歌は、『日本書紀』武烈天皇即位前期にある。
影媛は、以前から交際していた平群の鮪が、太子(後の武烈天皇)の命で大伴金村の軍に乃楽山で殺されたのを悲しみ、布留から乃楽山まで行って、夫の葬いをした。
ここ櫟本は、山の辺の道と都祁山道との衝に当たり、当時の政治・経済・軍事・文化の要衝であった。
媛はその山の辺の道を、泣きそぼちつつ行ったのであろう。
都祁山道を挟んで、南には物部氏、北には和珥氏がおり、この辺りが勢力の接点であった。武烈天皇の母、春日大娘皇后は、雄略天皇が
「影姫あわれの歌碑」横の説明板より和珥臣深目
の女童女君に生ませた女である。影媛は物部の麁鹿火大連の女である。
海柘榴市から布留、大宅、春日、そして平城山へ。この影媛がたどった道こそ、古代の山の辺の道だったと言われています。

その長い道のりと「泣きそほちゆく」という言葉で、影姫のうちひしがれた姿を想像させ、その悲しい気持ちが胸に迫ります。
布留の高橋
影姫がたどった「布留の高橋」を詠んだ歌は、『万葉集』にも登場します。

読み下し
石上 布留の高橋 高高に
妹が待つらむ 夜ぞふけにける
巻12-2997 作者不詳
現代語訳
石上の布留の高橋のように、心も高高と爪立つ思い妻が待っているだろう。
夜は更けてしまったことだ。
山の辺の道の布留川に架かる橋には、「高橋」という名前が付けられ、この万葉歌が書かれた説明板が建っています。

影姫は、豪族物部氏の娘です。
物部氏の総氏神である石上神宮の境内には『万葉集』に詠まれた「布留の神杉」がうっそうと茂り、歴史の重みを漂わせています。

➡秋の山の辺の道を歩く【石上神宮】常緑樹に包まれる神さびたパワースポット!(奈良県天理市)
和爾下神社へのアクセス
奈良県天理市櫟本町2490
「影姫あわれの歌碑」が建つ参道脇に無料駐車場があります。国道169号線沿いに建つ鳥居から、駐車場までは車の通行はできませんので、東側からお回り下さい。

こちらの記事では、「いにしへの歌碑めぐり」8番の歌碑をご紹介しています。布留川に想いを託して詠んだ万葉歌です。
最後までお読み頂きありがとうございます。