里中満智子さんの『天上の虹』が好きなみくるです。
『天上の虹』を通して、『万葉集』を読むことで『古事記』や『日本書紀』といった歴史書には記されない、当時を生きた人たちの本当の思いに触れられることを知りました。
現代の私たちがメールなどで言葉を交わすのと同じように、1300年前の人たちも恋人同士や親子、兄弟姉妹、友人、上司と部下などの間で歌を詠み交わしていました。
当時の人たちも同じようなことで思い悩み、人生に迷いながらも精いっぱい生きていたのだと感じます。
この記事では『万葉集』とはどういうものなのか解説しています。

『万葉集』の成り立ち
『万葉集』という名の由来
『万葉集(まんようしゅう)』という名の由来については、いくつかの説があります。
- 「万の言の葉」を集めた歌集(「万葉」=「多くの言葉・歌」)
- 「葉」を「言の葉」、つまり「歌」や「言葉」の意味と解釈し、多くの歌を集めた歌集という意味とする説です。鎌倉時代の学者である仙覚(せんがく)や、江戸時代の国学者・賀茂真淵(かものまぶち)などが支持しました。
- 「万の世に伝わるべき歌集」(「万葉」=「万世」)
- 「葉」を「世」(時代・代)と同じ意味と捉え、万代(よろずよ)、すなわち末永く後の世まで伝わるようにという願いや、祝賀を込めた命名とする説です。江戸時代の国学者・契沖(けいちゅう)などが提唱し、現代では有力な説の一つとされています。
これらの説のうち、特に2つ目の「万世に伝わるべき歌集」という意味合いが、書名に込められた願いとして有力視されていますが、学問的にはまだ決定的な結論は出ていません。

『万葉集』の成立
『万葉集』は現存する日本最古の歌集です。
原本は存在せず、一番古いのは平安中期ごろの写本です。

最後の歌が天平宝字3年(759年)1月に大伴家持が詠んだ歌であることと、家持が亡くなったのが延暦4年(785年)ということから、奈良時代の末期(8世紀末)に完成したものと見られています。
『万葉集』は約4500首の歌からなります。
歌に付けられた番号は4516番までありますが、全く同じ歌なのに作者未詳の歌と作者の分かる歌や、一部の語句が異なる歌などがあり、それらをどう数えるかで歌数が変わるので「約」とされています。
歌を詠んだ人たち
天皇や皇族の歌だけではなく、大伴家持のような宮廷に仕える貴族や官吏、彼らの家族、そして庶民の歌からなっています。
庶民の中には、農民や兵士、大道芸人もいました。
全体の約半数が作者未詳の歌です。
『万葉集』を読むことで、当時の人たちがどんな暮らしをし、何を感じていたのかを垣間見ることができます。

『万葉集』の歌と形式
『万葉集』に収録されている歌は、おもに「雑歌」、「相聞歌」、「挽歌」の3つのテーマに分けられます。
「雑歌(ぞうか)」とは
「雑歌(ぞうか)」は、宮廷の儀式や宴席、天皇の行幸などの場で、天皇をはじめとする公人や宮廷歌人が詠んだ歌など公的な歌が含まれます。
『万葉集』では、相聞歌、挽歌以外の全ての歌をいいます。

(読み下し)
大君は 神にしませば 天雲の
雷の上に 廬らせるかも
巻3-235 柿本人麻呂
(現代語訳)
大君は神でいらっしゃるので、遥かな天雲の中に轟く雷のさらにその上に仮宿りをなさっておいでのことだ。
「相聞歌(そうもんか)」とは
「相聞歌(そうもんか)」は、もともとは、親しい間柄の人同士がお互いの消息を述べ合い、贈答する私的なもので、『万葉集』のなかで最も多い歌のジャンルです。
男女間の恋の歌だけでなく、肉親や親族、友人間の歌も含みます。
「相聞歌」には、「妹(いも)」の語がよく詠まれますが、「妹」は主に男性が妻や恋人、姉妹などをよぶ言葉です。
「背(せ)」や「背子(せこ)」は女性が夫や恋人、兄弟などを呼ぶ言葉で、仲の良い友人など、男性同士が親しみを込めてよぶ場合に用いられることもあります。

(読み下し)
明日香川 瀬々の玉藻の うちなびき
情は妹に 寄りにけむかも
巻13-3267 作者未詳
(現代語訳)
明日香川の瀬々の玉藻がうちなびくように、心はあの娘になびきよってしまった。
「挽歌(ばんか)」とは
「挽歌(ばんか)」は、もともとは、葬送で棺を曳く者が謡う歌でしたが、死を悼む歌や亡くなった人を追慕する歌、死に臨む人が自らを悼んで詠んだ歌など、人の死にまつわる歌全般をいいます。

(読み下し)
山吹の 立ちよそひたる 山清水
汲みに行かめど 道の知らなく
巻2-158 高市皇子
(現代語訳)
山吹の花が美しく飾っている山の泉を酌みに行って
蘇らせたいと思うけれど、道を知らなくて
『万葉集』の構成と編纂者
『万葉集』の巻ごとの特徴
『万葉集』は、成立の経緯から、巻ごとに編集方針や収録歌に特色が見られます。
- 巻1 宮廷儀礼など公の場で詠まれた雑歌
- 巻2 天皇・皇族の相聞歌や公的な挽歌
- 巻3 巻1、巻2から漏れた歌を補う
- 巻4 恋を歌った相聞歌が中心
- 巻5 大宰府に赴任中の大伴旅人、山上憶良の歌が多い
- 巻6 宮廷を中心にした雑歌が多い
- 巻7 年代と作者未詳の雑歌・挽歌など
- 巻8 四季で分類された雑歌・相聞歌
- 巻9 旅や伝説にあつわる雑歌・相聞歌・挽歌
- 巻10 四季で分類された年代と作者未詳の雑歌・相聞歌
- 巻11 作者未詳の恋の歌
- 巻12 作者未詳の恋の歌が中心、旅立つ者の心情を詠んだ歌や哀別の歌も含む
- 巻13 作者未詳の長歌が中心
- 巻14 東国で詠まれた「東歌」が中心
- 巻15 古代日本が新羅に派遣した使節「遣新羅使」の歌など
- 巻16 地方の伝説にまつわる歌や民謡など
- 巻17~巻20 大伴家持の歌を中心に、防人の歌を含む
『万葉集』の最初の歌
『万葉集』巻1の巻頭を飾る歌は、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の長歌です。
(読み下し)
篭もよ み篭持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも
巻1-1 雄略天皇
(現代語訳)
籠よ、見事な籠を持ち、箆よ、立派な箆を持って、この岡で菜を摘んでおいでのお嬢さん、あなたの家をお名なのりなさい。名前をおっしゃい。そらみつ大和の国は、すべて私が支配しているのだ。私こそ明らかにしよう。家柄も名前も。
雄略天皇は、450年ごろに即位した古墳時代の天皇です。
古代、女性に名前や家を訪ねるのは求婚を意味しましたが、この歌は実際に求婚を意図して詠んだわけではなく、儀礼的に詠まれたものと考えられます。

春菜摘みは秋の豊作を祈願する重要な行事でした。
そこで菜を摘む乙女に求婚することは、天皇にとっては、豊穣祈願に加え、土地の神様の祝福を得て、支配を確かなものにするための重要なお務めでした。
『万葉集』の最後の歌
『万葉集』の最後に収められている歌は、巻第20の4516首目にあたる大伴家持(おおとものやかもち)の歌です。
(題詞)
三年春正月一日於因幡國廳賜饗國郡司等之宴歌一首
(読み下し)
新しき 年の初めの 初春の
今日降る雪の いやしけ吉事
巻20-4516 大友家持
(左注)
右一首守大伴宿祢家持作之
(現代語訳)
新しい年のはじめである新春の今日降る雪のように、善いことがいよいよ重なりますように。

「題詞」は歌の前に書いてある文で、「左注」は歌の後ろに書かれてある文です。
どちらも漢文で書かれています。
この歌の題詞の意味は、
三年(天保宝珠3年)春正月一日に、因幡の国庁にして、饗を国郡の司らに賜へる宴の歌一首
です。
『万葉集』の編纂者の一人と考えられている大伴家持が、因幡国(現在の鳥取県東部)の国司として赴任していた際、正月一日に国庁で開いた宴席で詠んだ祝賀の歌です。
歌集の最後を、新しい年を祝い、人々の幸せを祈る、明るくめでたい歌で締めくくっているのが特徴的です。この歌が『万葉集』に収録されている年代が明らかな歌の中で最も新しいものです。
このように、歌が詠まれた場面や事情などが説明されているので、『古事記』や『日本書紀』に記されている歴史的な事柄の背景にある、当時の人々思いが分かります。
歴史的に最古の歌は言葉に宿る力「言霊」を詠む歌
『万葉集』に収められている歌の中で、歴史的に最古の歌は7世紀前半の舒明天皇の長歌です。
(題詞)
天皇の香具山に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌
大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立つ立つ 海原は かまめ立つ立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は
巻1-2
(現代語訳)
大和には多くの山があるけれど とりわけ立派な天の香具山 その頂に登って大和の国を見渡せば 土地からはご飯を炊く煙がたくさん立っているよ 池には水鳥たちがたくさん飛び交っているよ ほんとうに美しい国だ このあきづ島大和の国は
万葉集巻1の2番目に収められている舒明天皇の国見の歌です。
「香具山(かぐやま)」は大和三山のうちの1つです。

国を見渡しながら「大和の国はすばらしい国である」と詠うことによって言霊の力で大自然の神々に語り掛け、実際にそのような国になるように祈る歌です。

日本では古来、言霊を信じてきました。
言霊とは、言葉に宿る不思議な霊威のことで、その言葉通りの事象がもたらされると信じられていました。
複合歌集『万葉集』
『万葉集』の成立は、主に年代や内容の傾向から、大きく以下の3つの段階を経て複合的に編纂されたと考えられています。
初期群(巻1・2を中心とする部分)
- 特徴: 収録歌の時代が最も古く、雄略天皇(5世紀)の歌から始まり、主に持統天皇(7世紀後半)から文武天皇(7世紀末~8世紀初頭)の頃の宮廷歌人(特に柿本人麻呂)の歌が多くを占めます。
- 内容: 天皇や皇族の歌、公的な行事や儀式で詠まれた歌(雑歌・挽歌)が中心で、宮廷歌集としての性格が強いとされます。
- 編纂者: 持統天皇の発意のもと、初期の段階で何らかの形でまとめられた歌集が元になっていると考えられています。
中期群(巻3~16を中心とする部分)
- 特徴: 奈良時代初期(8世紀前半)頃の歌が中心となり、収録歌の幅が広がり、地方の歌なども加わってきます。
- 内容:
- 山部赤人や山上憶良といった歌人の歌、また長歌や譬喩歌など多様な形式の歌が収録されます。
- 地方色の強い「東歌」(巻14)や「防人歌」の一部もこの段階で組み込まれたと考えられています。
- 歌の配列は、時代順やテーマ順など、編纂意図が巻によって異なり、多様な先行歌集の寄せ集めという側面が強くなります。
後期群・最終編纂(巻17~20)
- 特徴: 天平勝宝年間から歌集最後(天平宝字3年・759年)までの歌が収録されています。
- 内容: この部分は、歌集の最終編纂者とされる大伴家持の自作や、彼が関わった宮廷での贈答歌、宴席の歌が中心を占めます。家持の「歌日記」的な性格が強く、他の巻とは異なる編纂意図が見られます。
- 最終的な完成: この後期群を加え、また全体の構成を整えることで、大伴家持が現在の全20巻の形に集大成したというのが、最も有力な説です。
このように、『万葉集』は、約130年間にわたる歌を、複数の時期に、複数の編纂者が、それぞれの目的でまとめた歌集を統合していった結果、「複合歌集」という特異な姿になったと考えられています。
『万葉集』の編纂者
最も有力な説:大伴家持(おおとものやかもち)
『万葉集』の編纂者については、諸説ありますが、現在の学界で最も有力とされているのは、最後の歌(巻二十・4516)の作者でもある大伴家持(おおとものやかもち)です。
複数の編纂者がいたとされていますが、特に、歌集の最終部である巻17から巻20には、家持自身の作が多く収録されており、彼の私家集のような性格を持っています。また、彼の活動時期が歌集の成立時期と重なっていることも、有力説の根拠となっています。
その他の編纂者候補
大友家持が最終的な完成に携わったとされていますが、その前に歌集の基礎を築いたとされる人物や、複数回の編纂に関わったとされる人物もいます。
- 橘諸兄(たちばなのろもろえ):初期の編纂に関与したとする説があります。
- 膳氏(かしわでうじ)の人々:歌集の初期の段階で、歌の採集や整理に携わったとする説があります。
『万葉集』は、約130年間にわたる歌を収録した非常に大規模な歌集であるため、一人の人物が最初から最後まで編纂したというよりも、複数の人物が時間をかけて編集を重ね、最後に大伴家持がそれを集大成して完成させた複合的な歌集である、というのが一般的な見解です。
柿本人麻呂と『万葉集』
『天上の虹』の著者の里中満智子さんは、柿本人麻呂が係わっていると考えられています。

万葉集のすばらしさのひとつは、身分や立場によって分け隔てなく、テーマ別と、ざっくりした時代順に編纂されていることです。
では、いったい誰が編纂したのでしょうか?
説はいろいろありますが、おそらく巻1、巻2は、柿本人麻呂がかかわっているでしょう。
そして、意識的に歌を並べたことは明らかです。
最初に、伝説上の歌ですけれど、国のはじまりのころの歌、民間伝承の歌も入れてあります。
国の成り立ちを記録しようという意図を感じます。人麻呂が個人的に歌を集めはじめたのが、はじまりだったのではないかと思っています。
里中満智子さんに聞く万葉集の魅力 – ほぼ日刊イトイ新聞 (1101.com)
その後、テーマ別に並べたのが誰かはわからないけれど、大伴家持がかなりの部分関わっているのは、はっきりしています。
柿本人麻呂は『万葉集』の中で最も偉大な歌人の一人と見なされており、天皇や皇族の挽歌(死を悼む歌)や、雄大な旅の歌など、多くの傑作を残しています(長歌・短歌あわせて80首以上が収録)。
『万葉集』には、人麻呂自身の作のほかに、彼が編集したと伝えられる『柿本朝臣人麻呂歌集』から採られた歌が多数(約370首)収録されています。
これは、人麻呂の死後に彼の歌や、彼にゆかりのある歌を集めた個人の歌集が存在し、その歌集全体、またはその大部分が『万葉集』に取り込まれたことを示しています。特に初期の巻の叙情歌や相聞歌を構成する上で、この歌集は不可欠な資料でした。
一部の研究では、『万葉集』の最初期の一部(特に巻1〜巻4などの初期群)が、人麻呂や山部赤人といった宮廷歌人の選歌集を元にしている、という説もあります。
巻17〜20の他の巻と異なる編纂意図
圧倒的な「時間軸(日時の推移)」の重視
大伴家持は、自身の越中国司時代の歌(巻17〜19)や在京中の歌(巻20)を、まさに「いつ、どこで、誰と、何を見て、何を思って詠んだか」という具体的な日付や状況を明記して時系列で並べました。これにより、読者は家持の人生を追体験するように歌を読むことが可能になります。
「私的な生活」と「個人的な心情」の描写
地方官人として都を離れた生活(越中での孤独や四季の移り変わり)や、友人との贈答、一族の女性たちとの交流など、個人的で叙情的なテーマが増えます。
以前の巻に見られるような、天皇の行幸に随行して詠む公的な儀礼の歌よりも、個人的な感傷や修練の跡が色濃く現れています。家持自身、生涯で480首以上を詠んでおり、これは『万葉集』全歌数の約1割を占めます。
このように、巻17〜20は、古代の公的歌集の最後に、一歌人の私的な歌の記録を付け加えることで、歌集に「個人の情熱と生涯」という新たな深みを与えています。この家持による最終的な「歌日記」の導入が、他の巻と決定的に異なる編纂意図であると言えます。
『万葉集』の特徴
収められた歌の年代と作者
飛鳥時代から奈良時代まで約130年間の歌が収められています。
歌の作者は多く、名前のわかる歌人だけで約500人います。
天皇・皇族・貴族・官吏・庶民・防人などあらゆる階層の人たちです。
歴史的な事件に関連した歌も多い
有間皇子の謀反事件
有間皇子は孝徳天皇の皇子です。
一部から次の天皇として望まれていましたが、実権を握る中大兄皇子にとっては邪魔な存在でした。
中大兄皇子に対する謀反の罪で引き立てられて、紀の湯に向かう途中で詠んだ歌が収められています。
(読み下し)
家にあれば 笥に盛る飯を
草枕旅にしあらば 椎の葉に盛る
巻2-142 有馬皇子
(現代語訳)
家にいたなら食器に盛って食べるご飯を、草を枕にする旅の途中にあるので椎の葉に盛って食べているよ。

こちらの記事では、『なぞりがき万葉集』をもとに、有間皇子謀反事件と、辞世の句を詳しくご紹介しています。
大津皇子の謀反事件
大津皇子は天武天皇の皇子です。
天武天皇の崩御後、親友の川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に磐余にある自邸にて自害しました。
(読み下し)
ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を
今日のみ見てや 雲隠りなむ
万葉集 巻3-416 大津皇子
(現代語訳)
磐余の池に鳴く鴨を見ることも今日限りで、私は雲の彼方に去ってしまうのだろうか。

こちらの記事では、磐余の池があったとされる場所に建つ大津皇子の歌碑と、大津皇子の姉の大伯皇女が詠んだ歌をご紹介しています。
『万葉集』を読むと歴史的な事件に係わる人たちの思いに触れられます。
これからも楽しみたい万葉歌碑巡り
こちらの記事では、「犬養万葉記念館」で頂いた『明日香村の万葉歌碑を歩く』に掲載されている万葉歌碑40基をまとめてご紹介しています。
これからも万葉歌碑巡りをしつつ、万葉の故地をご紹介していこうと思っています。
最後までお読み頂きありがとうございます。




