万葉歌碑が建っている場所を訪れて、歌が詠まれた時代に思いを馳せるのが好きなみくるです。
私が住む橿原市の観光政策課さんが、「万葉集にゆかりが深い橿原で、令和の時代に万葉びとの思いや情景を感じていただければ」との思いから、市内の万葉歌碑を紹介するパンフレット『橿原の万葉歌碑めぐり~万葉人の心、千年を越えて 日本最初の歌集・万葉集~』を作成されました。
万葉びとの思いに触れたくて、パンフレットを片手に歌碑巡りをしています。
今回は、21番の中大兄皇子(後の天智天皇)の歌碑をご紹介します。大和三山を詠んだ有名な歌です。大和三山の伝承と反歌も合わせてご紹介します。
中大兄皇子の大和三山の歌
香具山は 畝火ををしと 耳成と
中大兄皇子が大和三山を詠んだ歌の歌碑は、橿原市白橿町の白橿近隣公園に建っています。沼山古墳があることでもよく知られる場所です。
(題詞)
中大兄[近江宮御宇天皇]<三山歌>
(中大兄皇子〔近江宮に天の下知らしめしし天皇〕の三山の歌一首)
(原文)
高山波 雲根火雄男志等 耳梨與
相諍競伎 神代従 如此尓有良之
古昔母 然尓有許曽
虚蝉毛 嬬乎 相<挌>良思吉
巻1-13 中大兄皇子
(読み下し)
香具山は 畝火ををしと 耳成と
相あらそひき 神代より
かくにあるらし 古昔も
然にあれこそ うつせみも
嬬をあらそふらしき
(現代語訳)
香具山は畝傍山を男らしい者として古い恋仲の耳成山と争った。
神代から、こうであるらしい。
昔もそうだからこそ、現実にも、愛する者を争うらしい。
中大兄皇子は後の天智天皇のこと。
この長歌は大和三山といわれる三つの山(香具山・耳成山・畝傍山)の伝説を詠ったものです。
歌碑が建つ場所から畝傍山が見えました。
大和三山と藤原宮跡
大和三山は、奈良盆地の南端にある三つの山の総称です。大和三山に囲まれた平野部には藤原宮が造営されていました。
藤原宮跡からは、東に香具山、西に畝傍山、北に耳成山の大和三山の秀麗な山容を眺望できます。
こちらの記事では、香具山を詠んだ持統天皇の歌と藤原宮跡から眺望する大和三山をご紹介しています。
反歌二首
反歌は長歌の後にそえる短歌で、長歌の主題を簡単にまとめたり、詠いきれなかったことを補ったりするものです。
中大兄皇子の長歌には二首の反歌がそえられています。
(読み下し)
香具山と 耳梨山と あひし時
立ちて見に来し 印南国原
巻1-14
(現代語訳)
香具山と耳梨山とが争った時に、阿菩の大神が立ち上がって見に来た印南の国原よ。
(読み下し)
わたつみの 豊旗雲に 入日射し
今夜の月夜 さやけかりけり
巻1-15
(現代語訳)
海の神がたなびかす、大きく美しい雲に、今まさに入日がさしている。今夜の月は明るく澄んでいるにちがいない。
大和三山の伝承
大和三山の歌をめぐっては、香具山が女性で畝傍山・耳成山を男性とする説、畝傍山が女性で香具山・耳成山を男性とする説など、さまざまな解釈がありますが、恋の争いに関する歌とする点では基本的に一致しています。
中大兄皇子が額田王をめぐって、弟の大海人皇子と争ったことを踏まえての三山の歌だという見解もありましたが、現在では額田王を求めて兄弟で争ったという説そのものが疑問視されています。『万葉集』には、複数の男性が一人の女性を争う歌がいくつかあるため、そういった類型の歌であるようです。
反歌では、香具山と耳成山が争った際、何者かが印南国原(現在の兵庫県加古川市・明石市の一帯か)まで見に来たとあります。誰が見に来たのかが示されていませんが、『播磨国風土記』に記される伝承が関係するようです。
出雲の阿菩大神が三山の争いを止めようと播磨国揖保郡上岡里(現在の兵庫県たつの市神岡町か)までやって来たところ、三山が争いをやめたと聞いたので、その地に鎮座したとあります。
中大兄皇子はこうした伝承を念頭に置いて、播磨国を旅する際などにこの歌を詠んだのではないかとも言われています。
この歌を中大兄が詠んだことが事実なら、奈良時代の風土記撰進の前に播磨国の伝承が王権に伝わっていたことになり、伝承の発生や伝播の過程に思いを巡らせたくなる興味深い歌群です。
橿原の万葉歌碑めぐり
こちらの記事では、橿原市の万葉歌碑をまとめてご紹介しています。
白橿近隣公園へのアクセス
橿原市白橿町8丁目1-2193
歌碑は公園内の小高い丘に建っています。
さらに登ると沼山古墳があります。沼山古墳は、2024年7月に新たに橿原市指定文化財(史跡)となった古墳です。
遊具と公衆トイレが設置されています。駐車場はありません。
最後までお読み頂きありがとうございます。