橿原市観光政策課が作成されたパンフレット『橿原の万葉歌碑めぐり~万葉人の心、千年を越えて 日本最初の歌集・ 万葉集~』を片手に万葉歌碑めぐりをしています。
今回は本薬師寺跡に建っている16番の大伴旅人の歌碑をご紹介します。
奈良の京を想う万葉歌~大宰府にて
忘れ草我が紐に付く香具山の
歌碑は奈良県橿原市城殿町の本薬師寺跡に建っています。
(題詞)
師大伴卿の歌(五首のうちの一首)
(原文)
萱草 吾紐二付 香具山乃
故去之里乎 忘之為
巻3-334 大伴旅人
揮毫:黒岩重吾
(読み下し)
忘れ草 我が紐に付く 香具山の
古りにし里を 忘れむがため
(現代語訳)
忘れ草を、私は着物の下紐につけて、青春を過ごした天香具山の麓の故郷への思いを忘れよう。
大宰府の長官として筑紫に赴任していた旅人の望郷の歌です。忘れ草は「カンゾウ」のことで、身につけると悲しいことや辛いことを忘れられると言われていました。
揮毫の作家・黒岩重吾氏は古代史を題材とした歴史小説等で活躍され、蘇我入鹿を主人公とした『落日の王子』などを著されています。
忘れ草を詠んだ万葉歌
『なぞりがき万葉集』に当記事でご紹介している旅人の歌が掲載されていました。こちらの記事では、忘れ草にこと寄せた相聞歌2首と合わせてご紹介しています。
➡ガラスペンでなぞる【なぞりがき万葉集】大伴旅人の望郷の歌と忘れ草を詠んだ相聞歌2首
本薬師寺跡と天香具山
歌碑が建つ本薬師寺跡からは天香具山が見えました。
香具山の麓には古い京(藤原京)があり、旅人の故郷もありました。
本薬師寺は天武天皇が後の持統天皇である皇后の病気平癒を祈願して建立に着手された寺院です。
本薬師寺跡についてはこちらの記事でご紹介しています。
➡天武天皇発願の大寺【本薬師寺跡】皇后の病気平癒を祈願して建立された官寺(奈良県橿原市)
こちらの記事では、持統天皇が天香具山を詠んだ歌をご紹介しています。
➡【橿原の万葉歌碑めぐり】天香具山を詠んだ持統天皇の歌~大和三山の眺めと共に〈藤原宮跡〉
大宰府で詠まれた歌
当記事でご紹介している旅人の歌は「帥大伴卿の歌」と題された五首のうちの一首です。「師」は長官の意味で、旅人は大宰府で最も大きな権限を持つ大宰師でした。
大宰府で詠まれた小野老の歌をご紹介します。
(題詞)
大宰少弐小野老朝臣の歌一首
(原文)
青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃
薫如 今盛有
巻3-328
(読み下し)
あをによし 奈良の都は 咲く花の
薫ふがごとく 今盛りなり
(現代語訳)
(あをによし)奈良の都は、咲き盛る花が輝くように今真っ盛りでした。
この歌は、筑紫の地方機関である大宰府の地に大宰少弐として派遣されていた小野老が、奈良の京を賞讃して詠んだとされる望郷の歌です。
大宰少弐は大宰府の次官なので、大宰師として派遣されていた大伴旅人の部下ということになります。
「帥大伴卿の歌」と題された歌は、大宰府の様子を報告する「朝集師」としての役目を終えて奈良の京から戻ってきた小野老の帰還を祝う宴の席で詠まれたものです。
同じ宴の席で詠まれた旅人の歌をもう一首ご紹介します。
(題詞)
帥大伴卿の歌(五首のうちの一首)
(原文)
吾盛 復将變八方 殆
寧樂京乎 不見歟将成
巻3-1331 大伴旅人
(読み下し)
我が盛り またをちめやも ほとほとに
奈良の都を 見ずかなりなむ
(現代語訳)
私の若い盛んだった頃は、また戻って来ることがあろうか。いや、どうも奈良の都を見ずに終わるのではなかろうか。
反対勢力の藤原氏が力を持ち、大宰府(現在の福岡県太宰府)という僻地に追いやられた旅人は、都に帰ることは期待できないと詠みますが、この数年後に奈良の京へ帰郷しました。しかし、その翌年には病を得て66歳で亡くなってしまいました。
本薬師寺跡へのアクセス
奈良県橿原市城殿町
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