橿原市観光政策課が作成されたパンフレット『橿原の万葉歌碑めぐり~万葉人の心、千年を越えて 日本最初の歌集・ 万葉集~』を片手に万葉歌碑めぐりをしています。
今回は「鷺栖神社」に建っている15番/柿本人麻呂の歌碑をご紹介します。
柿本人麻呂が高市皇子の死を悼んで詠んだ挽歌
鷺栖神社境内の歌碑
歌碑が建つ鷺栖神社は橿原市四分町に鎮座する古社です。
➡古事記に記述が見られる古社【鷺栖神社】(奈良県橿原市四分町)霊鳥「鷺」を祀る
歌碑は一の鳥居を潜った先の参道の途中、左側に建っています。
高市皇子の死を悼んで詠まれた挽歌です。
(題詞)
高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]短歌二首
(高市皇子尊の城上の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首并せて短歌二首)
(原文)
久堅之 天所知流 君故尓
日月毛不知 戀渡鴨
巻2-200 柿本人麻呂
(読み下し)
ひさかたの 天知らしぬる 君故に
日月も知らず 恋ひわたるかも
(現代語訳)
今は薨去されて天をお治めになってしまった高市皇子であるのに、月日の流れるのも知らず、いつまでも恋い慕いつづける私たちです。
この歌は巻2-199の長歌につけられた高市皇子を偲ぶ反歌2首のうちのひとつです。
※反歌は長歌の後に詠み添える短歌
高市皇子は天武天皇の長子でしたが、母親の身分が低いために皇位継承からは外れていました。大変優秀で評判が高く、持統天皇期には最高位である太政大臣に就いていました。
高市皇子の挽歌は『万葉集』で最長の長歌
巻2-199の長歌は『万葉集』で最長の長歌として知られています。
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神が原に ひさかたの 天つ御門を 畏くも定めたまひて 神ぶと 磐隠ります やすみしし わご大君の きこしめす 背面の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 蹔が原の 行宮に 天降り座して 天の下 治め給ひ 食す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 吾妻の国の 御軍士を 召し給ひて ちはやぶる人を 和せと 服従はぬ 国を治めと 皇子ながら 任し給へば 大御身に 大刀取り佩かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を あどもひたまひ 斉ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き響せる 小角の音も 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに 捧げたる 幡の靡は 冬ごもり 春さり来れば 野ごとに 着きてある 火の風の共 靡くがごとく 取り持てる 弓弭の騒み 雪降る 冬の林 飃風
かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来れ 服従はず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく 行く鳥の あらそふ間に 渡会の 斎の宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひ給ひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし わご大君の 天の下 申し給へば 万代に 然しもあらむと 木綿花の 栄ゆる時に わご大君 皇子の御門を 神宮に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲の 麻衣着 埴安の 御門の原に 茜さす 日のことごと 鹿じもの い匍ひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば 大殿を ふり放け見つつ 鶉なす い匍ひもとほり 侍へど 侍ひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬りいませて 麻裳よし 城上の宮を 常宮と 高くしまつりて 神ながら 鎮まりましぬ 然れども わご大君の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天の如 ふり放け見つつ 玉襷 かけて偲はむ 恐くありとも
巻2-199 柿本人麻呂
(大意)
飛鳥の真神原で天下をお治めになった(天武)天皇が、荒々しい従わぬ者を鎮めよと高市皇子に任されたので、皇子は勇ましく軍衆を率い、伊勢の神宮から吹く神風で敵を惑わせて平定なさった。そうして栄えていた折、皇子はお隠れになり、宮人たちはさまよい嘆いた。皇子がおられた香具山の宮はいつまでも荒れることがないだろう。深くお偲びしていこう。
前半は壬申の乱での活躍が描写されています。まだ19歳だった若き日の高市皇子は、父の大海人皇子(天武天皇)の命を受け最前線で戦い、軍衆を率いて勝利に導きました。後半では、主人を失った高市皇子宮に仕える人々の悲しみや葬送のさまが描かれます。歌中の「埴安の御門」、「香具山の宮」、「百済の原」、「城上の宮」といった地名は、高市皇子宮の比定地を探す手がかりとしても重視されています。
奈良県内には各地に万葉歌碑がありますが、高市皇子挽歌はあまりにも長いためか、全文を収めた歌碑は造られていません。
反歌2首のうちの1首が建つ鷺栖神社は藤原宮跡の西に位置し、東方には高市皇子宮があったとされる香具山が遠望できます。
高市皇子の挽歌に添えられた反歌をもう一首
もう一首は巻2-201に収められています。
(原文)
埴安乃 池之堤 隠沼乃
去方乎不知 舎人者迷惑
巻2-201 柿本人麻呂
(読み下し)
埴安の 池の堤の 隠り沼の
ゆくへを知らに 舎人は惑ふ
(現代語訳)
埴安の池の堤に囲まれた隠沼の水のように、どう流れていくともわからなくて舎人たちは迷っている。
※「埴安の池」は香具山の北麓から西麓にわたってひろがり、一部南側の南浦町あたりまで及んでいたと思われる池です。
里中満智子さんの『天上の虹』では、高市皇子と柿本人麻呂は特別な仲であったように描かれています。高市皇子の死に接した時に一番長い歌を詠んだ柿本人麻呂。そこには儀礼的なもの以上のことがあったのでは、と想像したくなります。
鷺栖神社へのアクセス
奈良県橿原市四分町305-2
鷺栖神社についてはこちらの記事でご紹介しています。
こちらの記事では高市皇子が十市皇女を偲んで詠んだ挽歌をご紹介しています。
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