景色を楽しみながら歌碑を訪ね歩き、いにしえの歌人の思いに触れるのが好きなみくるです。
日本最古の道「山の辺の道」には38基もの歌碑が建てられています。全部を見つけたいと思っています。

今回は、観光パンフレット「山の辺の道」に掲載されている中から、27番の高市皇子の歌碑をご紹介します。
高市皇子が異母姉である十市皇女が若くして亡くなった際に、死を悼んで詠まれた三首の挽歌のうちの一首です。他の二首も合わせてご紹介しています。
高市皇子が十市皇女の死を悼んで詠んだ挽歌
山振の 立ち儀ひたる 山清水 酌みに行かめど 道の知らなく
今回ご紹介する歌碑は、山の辺の道にある「玄賓庵」の北側の山清水のせせらぎの森かげに建っています。

流れ落ちた山清水が、小さな川となって流れている美しい場所です。



(原文)
山振之 立儀足 山清水
酌尓雖行 道之白鳴
(読み下し)
山振の 立ち儀ひたる 山清水
酌みに行かめど 道の知らなく
万葉集 巻2-158 高市皇子
揮毫者 安田 靫彦
(現代語訳)
山吹の花が美しく咲き乱れている山の清水を汲みに行きたいと思うのだが、どう行ってよいのか道がわからないことよ。
高市皇子が異母姉である十市皇女が若くして亡くなった際に、死を悼んで詠まれた三首の挽歌のうちの一首です。美しい自然描写と心情表現が特徴的で、胸を打ちます。
(語義)
山振(やまぶき)…山吹の花は、黄色い花を咲かせます。古くは「山振り」とも呼ばれ、枝が風に揺れる様子から名付けられたとも言われています。
山清水(やましみづ)…山の清水は、清らかで生命力を象徴するものです。
道の知らなく…この「道がわからない」という言葉には、単に地理的な道がわからないだけでなく、亡くなってしまった十市皇女がいる「黄泉の国」への道がわからない、あるいは、もう彼女に会うことができないという絶望的な気持ちが込められていると解釈されています。
高市皇子は、美しい山吹が咲く生命の泉のような場所(あるいは黄泉の国)へ行って、亡くなった十市皇女を蘇らせたい、あるいは彼女に会いたいと願っているけれども、それが叶わないことへの深い悲しみと、道を見つけられない無力感を詠んでいます。
山吹の黄色い花が黄泉の国の色を暗示しているとも言われ、亡き人への切ない思いが込められた、非常に情景豊かで情感のこもった歌として知られています。
山の辺の道に咲いていた山吹です。

山吹は春の訪れを告げる鮮やかな黄色の花を咲かせる、日本や中国が原産の落葉低木です。古くから日本で親しまれ、多くの和歌に詠まれてきました。
4月~5月にかけて、オレンジがかった濃い黄色の花をたくさん咲かせます。この「山吹色」は、山吹の花のような色として定着しています。

歌碑の傍らに落ちる山清水です。

石仏のお姿もありました。

情景豊かで情感のこもった歌が建つ場所としてふさわしく、高市皇子の哀しみがよく伝わります。
高市皇子のこと
高市皇子(たけちのみこ )は、飛鳥時代の皇族で、天武天皇の第一皇子です。壬申の乱(672年)で、父・天武天皇(当時は大海人皇子)を支持し、大友皇子(弘文天皇)との戦いで活躍しました。乱後、皇位継承候補と目されましたが、686年頃に早世。 天皇に次ぐ位である太政大臣に任じられましたが、即位することなく亡くなりました。
十市皇女(とをちのひめみこ)は、天武天皇と額田王の娘で、大友皇子の妃でしたが、壬申の乱で夫を亡くした後、急死しました。
高市皇子と十市皇女は異母姉弟にあたります。十市皇女の死を悼む歌を詠んでいることから、高市皇子が彼女に深い思いを寄せていた、あるいは、彼女の死を悼む心情が強くあったことが伺えます。
高市皇子の死については、『日本書紀』持統天皇10年(696年)7月10日の条に「高市皇子、薨(こう)ず」と簡潔に記されているのみです。享年42歳または43歳とされています。
当時の皇族の死因は明確に記録されないことが多く、病死である可能性が高いと考えられますが、明確な史料がなく、歴史学者の間でも議論が分かれています。
壬申の乱での功績や、天武天皇の皇子としての地位から、皇位継承の有力候補と目されていました。このため、政敵や他の皇族(特に持統天皇やその支持勢力)による暗殺や政治的排除の可能性が一部で指摘されます。
高市皇子は、『万葉集』が好きになるきっかけとなった里中満智子さんの『天上の虹』で、魅力的に描かれている人物のひとりです。作品中では、十市皇女との関係に苦しむ様子がよく描かれています。十市皇女の死因も不明ですが、若くして(30歳前後)急死したことから、自死の可能性が指摘されています。
高市皇子の挽歌三首
三諸の 神の神杉 夢にだに
『万葉集』に収められている高市皇子の歌三首全てが、十市皇女が亡くなった時に詠まれた歌です。
(題詞)
十市皇女の薨ぜし時に、高市皇子の作りませる御歌三首
(原文)
三諸之 神之神須疑 已具耳矣自
得見監乍共 不寝夜叙多
(読み下し)
三諸の 神の神杉 夢にだに
見むとすれども 寝ねぬ夜ぞ多き
万葉集 巻2-156 高市皇子
※「已具耳矣自得見監乍共」の読みは確定されていませんが、ここでは「夢にだに見むとすれども」とする解釈を用いました。
(現代語訳)
三輪山の神の神杉のような愛しい人よ。(亡くなったあなたを)夢にばかり見て眠れない夜が多いのです。

三輪山の 山辺真麻木綿 短か木綿
(原文)
神山之 山邊真蘇木綿 短木綿
耳故尓 長等思伎
(読み下し)
三輪山の 山辺真麻木綿 短か木綿
かくのみからに 長くと思ひき
万葉集 巻2-157 高市皇子
(現代語訳)
三輪山の山辺に奉る麻の木綿は短くて、そんな短い木綿のようにあなたの命は短いものだったのに、(あなたの命は)もっともっと長いと思っていたのですよ、私は。
※「木綿」は 楮で作った布で、「真麻木綿」は麻の木綿です。
「木綿」は神事などで使われました。

山振の 立ち儀ひたる 山清水
三首目は、山の辺の道に建つ歌碑にある歌です。
(読み下し)
山振の 立ち儀ひたる 山清水
酌みに行かめど 道の知らなく
万葉集 巻2-158 高市皇子
このように、三首全てが十市皇女が亡くなった時に詠まれた挽歌であることから、高市皇子にとって十市皇女は非常に大きな存在だったのだろうと思われます。
『日本書紀』に「十市皇女、卒然に病発して、宮中に薨せぬ」と記されています。突然大切な人を亡くした高市皇子の悲しみがひしひしと伝わり胸を打ちます。
揮毫者の安田 靫彦 氏について
桜井市にある歌碑は、昭和46年当時の桜井市長と桜井市出身の文芸評論家、保田與重郎氏を中心に「心ある人々に記紀万葉のふるさとと桜井の歴史を体感し楽しんでいただこう」という思いで呼びかけられ多くの文化人に賛同をいただき揮毫されたものです。
安田 靫彦(やすだ ゆきひこ)氏は、大正から昭和期にかけて活躍した日本画家です。本名は安田 新三郎(やすだ しんざぶろう)といいます。1884年(明治17年)に東京市日本橋区で生まれ、1978年(昭和53年)に94歳で亡くなりました。
前田青邨氏と並び、歴史画の大家として知られています。法隆寺金堂壁画の再現模写に尽力されました。
『万葉集』に詠まれた歌や登場人物を題材とした作品をいくつか制作しています。特に知られているのは、1964年(昭和39年)に制作された『飛鳥の春の額田王』です。

よく見かける有名な絵です。郵便切手にもなりました。
中央に描かれる人物は、飛鳥時代の歌人であった額田王(ぬかだのおおきみ)。奥には畝傍山(うねびやま)、香久山、耳成山の大和三山、手前左には川原寺、本薬師寺、藤原宮、右には板葺宮、飛鳥寺、山田寺と、額田王が生きた時代の奈良の様子が描かれています。実際の地理関係とは異なっていますが、ここでは画面構成が優先されています。画面左下には梅の花が描かれており、季節は春だとわかります。安田靫彦は19歳の時に飛鳥を訪れ感銘を受けており、約60年後に制作された本作にその思いを結実させました。歴史画の名手であった靫彦の、晩年を代表する作品の一つです。
飛鳥の春の額田王 | 滋賀県立美術館
額田王は十市皇女の母親です。高市皇子の挽歌に強く感じ入ったことでしょう。同じ気持ちで、安田靫彦氏はこちらの歌碑を揮毫されたのだろうと思いました。
高市皇子「万葉歌碑」巻2-158へのアクセス
奈良県桜井市茅原
こちらの記事では、奈良県高市郡明日香村の「犬養万葉記念館」の中庭にある高市皇子の歌碑をご紹介しています。
歴史と万葉のふるさとである飛鳥を愛し、その保存に尽力された犬養孝先生が揮毫された歌碑です。
歌碑の傍らに建つ説明板に
あなたに会いに行きたいが、黄泉の国へ旅立たれたので、もうお会いできないというこの歌が、犬養先生を偲ぶ教え子の気持ちにピッタリのため、平成12年の記念館の開館時に、この歌碑を建て、山吹を植えました。
と解説されていました。
最後までお読み頂きありがとうございます。