マップを見ながら史跡巡りをするのが好きなみくるです。
今回は、「山の辺の道美化推進協議会」さんが発行されている、観光パンフレット「山の辺の道」から、内山永久寺跡をご紹介します。
内山永久寺は、かつては「西の日光」と呼ばれ五町四方の寺域と五十余の堂塔を有する大寺院でしたが、今では本堂池だけがその面影をかすかに伝えるのみとなっています。
桜の頃はベストショットの場所として知られ、その美しい写真は、観光パンフレット「山の辺の道」の表紙になっています。
内山永久寺跡
内山永久寺の歴史
内山永久寺は内山金剛乗院の院号をもつ真言宗古義派の寺院です。三方を山に囲まれていることから内山といい、院号を金剛乗院といいました。ご本尊は阿弥陀如来様です。
永久年間(1113年-1118年)に鳥羽天皇の勅願により、興福寺大乗院第2世院主の頼実が創建し、平安時代には多くの堂塔坊舎を抱えました。
石上神宮の神宮寺としての性格を備えるようにもなり、興福寺を支配していた2大院家の一方である大乗院の権威を背景として、室町期には絶大なる勢力を誇った。
『太平記』によると、延元元年・建武3年(1336年)には後醍醐天皇が吉野へ逃避する途中、ここに身を隠したといいます。
文禄4年(1595年)に、豊臣秀吉から寺領を与えられ、五町四方の広大な寺域に坊舎52坊が立ち並ぶ大寺となりました。
『大和名所図会』所収の境内図を見ると、池を中心とした浄土式回遊庭園の周囲に、本堂、観音堂、八角多宝塔、大日堂、方丈、鎮守社などのほか、多くの院家、子院が建ち並んでた様子が見て取れ、かつての栄華が偲ばれます。
明治維新の廃仏毀釈により、貴重な仏像・障壁画・仏画等が散逸し、西の日光といわれた豪華な堂坊も明治7年から9年までの間に礎石から瓦一枚に至るまで取り除かれ、本堂池だけが残りました。
本寺ほどの大寺院が跡形無く破壊されたのは稀有なケースです。
石上神宮に移築された拝殿
鎮守社の住吉神社の拝殿が、大正3年(1914年)に移築され、石上神宮摂社である出雲建雄神社の拝殿として再利用されています。
1300年代に建てられたこの拝殿は、現在は国宝に指定されています。
こちらの拝殿を拝見するだけでも、内山永久寺かいかに壮麗なお寺であったか想像できます。石上神宮の境内で拝見できます。
内山永久寺跡
内山永久寺跡は、奈良県天理市杣之内町の石上神宮の南方、山の辺の道沿いにあります。
グーグルマップに「内山永久寺跡ポケットパーク」と表記されている場所に、「内山永久寺絵図」と説明板が設置されています。
山の辺の道沿いにあります。
東屋が設置され、山の辺の道ハイキングの休憩場所として利用されています。
かつての浄土式庭園の跡である池を眺められます。池の周りは水田やミカン・柿などの果樹園になっています。
こちらに大伽藍が立ち並んでいたのだと思うと、しみじみとします。廃仏毀釈は大変勿体なく、悲しい歴史だと改めて感じました。
内山永久寺跡の石碑
グーグルマップに「内山永久寺跡」と表記されている場所に「内山永久寺の石碑」が建っています。
浄土式庭園の池
現在では当寺の敷地の大半は農地となり、境内の浄土式庭園であった池だけが残り当時の面影を伝えています。
南北朝時代、後醍醐天皇が吉野遷幸の時に立ち寄ったとされる「萱御所跡」の石碑です。
池の周囲には桜が植えられ、花の頃には素晴らしい景観を見せてくれます。
松尾芭蕉の句碑
池の畔に建つ松尾芭蕉の句碑です。
松尾芭蕉(1644-1694)が、まだ「宗房」の号で出身地の伊賀上野に住んでいた頃に、この地を訪れて詠まれた句です。
うち山や とざましらずの 花ざかり
宗房
こちらの記事で詳しくご紹介しています。
内山永久寺跡へのアクセス
奈良県天理市杣之内町
駐車場はありません。
天理市営駐車場 山の辺の道(杣之内)より、山の辺の道を歩いて約20分です。石上神宮までは約16分です。
こちらの記事では、天理市営駐車場 山の辺の道(杣之内)と、すぐ東側に広がるひまわり畑をご紹介しています。
最後までお読み頂きありがとうございます。