里中満智子さんの『天上の虹』がきっかけで、『万葉集』が好きになったみくるです。
なかでも心を強く揺さぶられるのが、大津皇子とその姉・大伯皇女の歌です。悲運の皇子と、それを見送る姉の心情は、『万葉集』の中でも屈指の名場面として読み継がれてきました。
先日、奈良県桜井市の「吉備池廃寺跡(きびいけはいじあと)」を訪れたとき、その二人の歌を刻んだ歌碑が建っているのを目にしました。池の畔からは二上山も望め、まるで当時の情景が目の前に広がるかのようで、胸がいっぱいになりました。

舒明天皇の勅願によって創建された百済大寺の跡地に、なぜ大津皇子と大伯皇女の歌碑が建てられたのか――そしてその歌に込められた想いとは。
この記事では、『日本書紀』の記述を手がかりに、大津皇子の処刑の背景や大伯皇女の深い悲しみをたどりながら、吉備池廃寺跡と歌碑の意味を考えてみたいと思います。
吉備池に佇む大津皇子と大伯皇女の歌碑を訪ねて
大津皇子の最期|辞世の歌に込められた想い
大津皇子の謀反と処刑の経緯
奈良県の桜井市から橿原市にかけて広がる磐余(いわれ)の地。ここには、歴史の闇に葬られた一人の皇子の悲劇を伝える歌碑が建っています。
天武天皇と大田皇女の子として生まれた大津皇子(おおつのみこ)は、容姿端麗で学識にも優れ、武芸にも秀でていたと伝わります。将来を嘱望された皇子でしたが、686年(朱鳥元年)、父・天武天皇が崩御すると運命は大きく変わります。
『日本書紀』は、大津皇子の最期について驚くほど簡潔に記しています。
「冬十月戊寅朔庚辰、大津皇子、謀反を謀ると誣(し)ふ。…辛巳、皇子を訳語田(おさだ)の家にて絞(くび)り殺(し)たまふ。時に年廿四(はたちよまり)なり。」
これが、天武天皇の子で、次期天皇の最有力候補と目されていた大津皇子の死の全容です。わずか24歳という若さで、持統天皇の命により処刑されたと伝えられています。
この「謀反」は、母方の伯母にあたる持統天皇が自分の子である草壁皇子を即位させるための口実だった、というのが通説です。
大津皇子の辞世の句
その非業の死を前に、大津皇子が詠んだとされるのが、吉備池(きびいけ)のほとりに残る辞世の歌です。

(題詞)
大津皇子の死を被(たまはり)し時に、磐余の池の陂(つつみ)にして涕(なみだ)を流して作らす歌一首
(原文)
百傳 磐余池尓 鳴鴨乎
今日耳見哉 雲隠去牟
(読み下し)
百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を
今日のみ見てや 雲隠りなむ
万葉集 巻3-416 大津皇子
(現代語訳)
(百代に語り継がれてきた、この故郷の)磐余の池で鳴いている鴨を、見るのも今日を限りとして、私は雲の彼方へ消え去ってしまうのだろうか。
(語義)
- ももつたふ(百伝ふ):「磐余(いわれ)」にかかる枕詞です。枕詞は、特定の言葉を導き出すために使われる、意味を持たない飾り言葉ですが、この歌では「多くの人々に語り伝えられている」というニュアンスを込めていると解釈されることもあります。
- 磐余(いわれ)の池:奈良県橿原市から桜井市にかけて広がる地域を指す地名「磐余」にあったとされる池です。大津皇子の自邸の近くにあったと考えられています。
- 鳴く鴨(なくかも):池にいる、のどかに鳴いている水鳥の鴨のことです。自由気ままに生きる鴨の姿と、これから死を迎える自身の境遇を対比させることで、皇子の悲しみを際立たせています。
- 今日(けふ)のみ見てや:「今日を限りに見てしまうのだろうか」という意味です。「のみ」は限定を表す助詞で、「今日だけ」という最後の機会を強調しています。「や」は疑問の助詞で、自問自答するような、悲しみと諦めが入り混じった気持ちを表しています。
- 雲隠りなむ(くもがくりなむ):「雲の彼方に隠れてしまうだろう」という意味です。「雲隠り」は、死を表す雅語(上品な言葉)です。大津皇子自身が、あたかも雲のように消えていってしまう、という悲劇的な運命を自ら表現しています。「なむ」は推量や意志を表す終助詞で、これから起こる自分の死を覚悟している様子が伝わります。

この辞世の句には、無念さよりも静かな諦念が漂っています。
愛する池の水面に鴨が遊ぶ光景を目に焼きつけ、死を受け入れようとする気持ちが伝わってきます。だからこそ、訪れた人が吉備池(きびいけ)の畔に立ち、この歌を読むと、はるか昔の皇子の心情が鮮やかに胸に迫ってくるのです。
『日本書紀』と『万葉集』が語る大伯皇女の悲しみ
死者を見送る姉の想い
大津皇子の悲劇の陰には、弟の無念を一身に背負った姉、大伯皇女(おおくのひめみこ)の存在がありました。『日本書紀』には、大伯皇女が伊勢神宮に仕える斎王(いつきのみこ)に任じられ、弟の処刑後にその職を解かれて都へ戻ったことが記されています。
「十一月(かむづき)に、大来皇女を斎宮(いつきのみや)に拝(おとづき)たまふ。…」 「十月庚辰に、大津皇子死(し)にたまひき。十一月辛酉に、伊勢斎宮の大来皇女、罪(とが)有りて京に帰りたまふ。」
『日本書紀』は、彼女の心情については深く語りませんが、そこに込められた悲しみは『万葉集』が雄弁に伝えています。伊勢から駆けつけた姉は、弟の亡骸が二上山に葬られるのを見届け、慟哭の歌を詠みます。

(題詞)
大津皇子の亡骸(なきがら)を葛城の二上山(ふたかみやま)に移し葬るときに、大伯皇女が悲しんでお作りになった歌二首
(原文)
宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者
二上山乎 弟世登吾将見
(読み下し)
現身の 人にある吾れや 明日よりは
二上山を 弟背と吾が見む
万葉集 巻2-165 大伯皇女
(現代語訳)
この世に生きて、現実に存在している私(うつそみの人)は、明日からは(処刑されて二上山に葬られた)あの二上山を、愛しい弟だと思って見ることにしよう。
(語義)
- 現身(うつそみ) :「この世に生きている人間」という意味です。神や死者ではない、現実に存在する自分のことを指し、自らの悲しい境遇を客観的に見つめている様子がうかがえます。
- 人にある吾れや :「人間として生きている私であるのに」という意味です。「や」は疑問・反語の助詞で、「なぜ私は生きているのだろうか」という、死者となった弟との対比からくる悲痛な嘆きが込められています。
- 明日よりは :「明日からは」という意味です。この「明日」は、今日までは弟の死を悼んでいたが、明日からは弟の亡骸を収めた二上山を、弟そのものとして見て生きていく、という決意のようなものを表しています。
- 二上山(ふたかみやま): 奈良県と大阪府の境にある、雄岳と雌岳の二つの峰からなる山です。大津皇子の墓が雄岳の山頂にあることから、皇女にとっては弟の魂が宿る場所となりました。
- 弟背(いろせ) :「愛しい弟」を意味する言葉です。「弟」に加えて「背(せ)」という親愛の情を込めた呼び方を用いることで、皇女がどれほど弟を深く愛していたかが伝わってきます。
この歌には、姉としての深い悲しみと、死者を見送る覚悟が繊細に表現されています。
二上山と池に重なる歌の情景
吉備池の畔から望む二上山は、まさに大津皇子が葬られた場所を象徴し、古代の景色と歌が重なり合います。

大伯皇女の歌は、単なる悲嘆ではなく、生者と死者の対比を通して、時の流れと人の無常を静かに見つめています。「現身(うつせみ)」という言葉が、まさに生きている自分と亡き弟との距離感を際立たせ、読者の胸に迫ります。
吉備池廃寺跡の歌碑に刻まれた文字を目にすると、千年以上前にここで詠まれた姉弟の想いが、風景とともに伝わってくるかのようです。池面に映る水の揺らぎや遠く二上山を眺めながら、この歌を読むと、単なる古典ではなく、生きた人間の感情として胸に響くのを感じます。
大津皇子と大伯皇女の歌碑は、吉備池のほとりのお互いが見える位置に建っています。写真手前が大伯皇女の歌碑、向こう側が大津皇子の歌碑です。

吉備池廃寺跡と歌碑|磐余池伝承と百済大寺跡を歩く
舒明天皇勅願の百済大寺
吉備池廃寺跡は、舒明天皇の勅願によって創建された百済大寺の跡地とされています。古代には「磐余池」と呼ばれた大規模な溜池があり、その水面を望むこの地に、二人の歌碑が建てられました。

磐余の地と歌碑の意義
歌碑の並びは、単なる記念碑ではなく、歴史・文学・景観が融合する場として設計されたかのようです。非業の死を遂げた弟と、彼を悼む姉の歌が、池の水面や遠く二上山の景観とともに響き合う場所——。まさに古代の悲劇が現代に息づく空間と言えます。
吉備池を訪れれば、大津皇子の辞世の歌、大伯皇女の挽歌、そして舒明天皇ゆかりの寺院跡という三重の歴史が、千年以上の時を超えて身近に感じられるでしょう。
詳しい歴史や百済大寺創建の背景、吉備池廃寺跡の現地の様子は、こちらの記事で紹介しています。あわせて読むと、古代の磐余の地の歴史をより深く理解できます。
複数の「磐余池」と歌碑
実は、大津皇子が歌を詠んだとされる「磐余の池」は、複数の場所にその伝承が残っています。今回ご紹介した桜井市の吉備池もその一つですが、橿原市東池尻にも大津皇子の歌碑が建っています。

こちらは、近年の発掘調査で磐余池の広大な堤跡が確認された場所で、より学術的な根拠に基づいています。古代のダム式ため池としては最大級の規模だったとされ、その技術力の高さにも驚かされます。
歴史のロマンを感じながら、この悲劇の姉弟の物語に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。吉備池を訪れる際は、ぜひ二つの歌碑を巡りながら、それぞれの歌が持つ意味と背景をじっくりと感じ取ってみてください。
こちらの記事では、大伯皇女が詠んだもう一首の歌も合わせてご紹介しています。
訪問のすすめ|古代の物語を自分の目で確かめる
奈良県桜井市の吉備池は、歴史や古代歌に興味のある方はもちろん、奈良の自然と古代史を同時に感じたい方にもおすすめです。池の畔を歩き、二上山を望みながら歌碑を目にすると、万葉の世界が目の前に広がり、千年前の皇子と姉の想いが現代に届くような感覚に包まれます。
ぜひ、吉備池廃寺跡と東池尻の大津皇子の歌碑を巡って、古代の物語を自分の目で確かめ、時を超えた皇族たちの想いを感じてみてください。
『万葉集』の世界を深く学べる本
大津皇子の物語は、里中満智子さんの『天上の虹』で印象的に語られています。
持統天皇を主人公とする物語なので、死に追いやらなければならなかった苦悩がよく描かれていて、史実を多面的に捉えることができました。
⇩大津皇子が謀反の意ありとされ、引き立てられる場面です。

『天上の虹』ではまた、大津皇子を裏切ったとされる川島皇子の苦悩も濃く描かれています。
川島皇子が実際のところ、どう考えて行動したのかわからないけれど、
里中満智子さんに聞く万葉集の魅力 – ほぼ日刊イトイ新聞 (1101.com)
きっと人と人のつながりのなかで動いている。
いい奴とか悪い奴とか、ひとくちにいえる人なんていないと思うんです。
しがらみと理想と、自分の実力。
そうしたものを秤にかけて、家族の事情も抱えながら考える。
それは、きっと私たちと同じです。
そういう感覚で読むと万葉集って、とても近いものになる。
1000年くらいで、人ってそう変わりませんから、わからない世界じゃないんですよ。
人はそんな簡単じゃない、それは現代に生きる私たちも、万葉の時代の人たちも同じ。
里中満智子さんは深い気づきを下さいます。
大津皇子が磐余の池で辞世の句を詠む場面は、講談社文庫版『天上の虹』6巻に描かれています。
吉備池畔の大津皇子 万葉歌碑へのアクセス
奈良県桜井市吉備79
駐車場はありません。
桜井駅(近鉄線・JR線)から徒歩約30分です。
最後までお読み頂きありがとうございます。