景色を楽しみながら歌碑を訪ね歩き、いにしえの歌人の思いに触れるのが好きなみくるです。
今回は、志貴皇子の歌碑をご紹介します。
明日香風の歌は、明日香のどこか懐かしく心地よい風を思い出させてくれる、好きな歌のひとつです。
采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く
志貴皇子のこと
志貴皇子は天智天皇の第7皇子です。
大津皇子らと共に皇位継承の争いを起こすことのないように結束を誓う「吉野の盟約」に参加しています。
大津皇子が謀反の疑いを持たれ死を賜ったので、志貴皇子は文化人として生きる道を選んだのではないかと想像しています。
「万葉歌碑巡り~磐余の池跡地と大津皇子辞世の句」も合わせてご覧ください。
政治の表舞台に立つことなく、西暦716年に亡くなっていますが、志貴皇子の子の白壁王が光仁天皇として即位したときに、春日宮御宇天皇と追尊されました。
田原天皇(たはらてんのう)とも呼ばれます。
壬申の乱以降、天武系に移った皇統は称徳天皇の死後、再び天智系に移りました。今日の皇室は志貴皇子の男系子孫にあたります。
飛鳥宮跡の歌碑
奈良県高市郡明日香村岡にある「飛鳥宮跡」に志貴皇子の歌碑があります。
婇女乃 袖吹反 明日香風
京都乎遠見 無用尓布久
万葉集巻1-51 志貴皇子
平山郁夫揮毫
詞書に「日香宮(あすかのみや)従(よ)り藤原野宮に遷(うつり)居(を)りし後に志貴皇子の作らす歌」とあります。
(読み下し)
采女の 袖吹きかへす 明日香風
都を遠み いたづらに吹く
(現代語訳)
采女の袖を吹き返した明日香風は、都が遠のいたので、今はただむなしく吹いている。
都が飛鳥浄御原宮から藤原宮へと遷されたのち、志貴皇子がかつての宮だった明日香を訪れて詠んだものです。かつての活気が無くなった場所を訪れた時は、その土地の神を慰める歌を詠むのが慣わしでした。
こちらの記事で、飛鳥宮跡についてご紹介しています。
甘樫丘の歌碑
甘樫丘にも同じ歌の歌碑があります。
こちらの揮毫は犬養孝先生です。
犬養孝先生のこと
犬養孝先生は万葉研究の第一人者です。朗々とした歌声は「犬養節」と呼ばれ多くの人に親しまれました。万葉ゆかりの土地1200か所を実際に歩いて調査するという大事業を成し遂げ、万葉の風土景観を守る運動を生涯の仕事とされました。
揮毫者の犬養孝(1907~98)は、明日香村名誉村民、文化功労者、大阪大学・甲南大学名誉教授。
解説版より引用
「万葉集」の風土文芸学的研究をおこない、明日香をはじめ全国の万葉故地保有に尽力した。
「南都明日香ふれあいセンター 犬養万葉記念館」が、明日香村にある」。
犬養孝生誕百年を記念して、ここに歌碑解説版を設置する。
平成19年4月1日 犬養万葉顕彰会
こちらの記事では、歴史と万葉のふるさとである飛鳥を愛し、その保存に尽力した犬養孝氏の業績を顕彰する記念館である「犬養万葉記念館」をご紹介しています。
万葉歌碑巡りをすることで、その故地を知り、当時に想いを馳せることができます。犬養孝先生のことを学んだおかげで、故地を知り伝えていくことが、豊かな自然を守ることにつながると思うようになりなした。
著書も多く残されています。
明日香村内に建てられている40基の万葉歌碑のうち、15基が犬養孝先生の揮毫です。
まだ全部巡れていませんが、巡った所から順にご紹介していく予定です。
甘樫丘の万葉歌碑へのアクセス
奈良県高市郡明日香村豊浦788
甘樫丘の万葉歌碑は、甘橿茶屋前の階段から登ってすぐの所にあります。
2022年の12月の初めに撮った写真です。紅葉が綺麗でした。
歌碑はこの階段を登った所にあります。
こちらの記事では、秋の甘樫丘をご紹介しています。
最後までお読みいただきありがとうございます。