NHK大河ドラマ「光る君へ」の放送で和歌ブームが来るかも!?と思っているみくるです。
今回は『なぞりがき百人一首』から7番/阿倍仲麿の歌と、「光る君へ」でユースケ・サンタマリアさんが演じられた「安倍晴明」ゆかりのお寺「安倍文珠院」にある歌碑をご紹介します。

『百人一首』7番/安倍仲麿の望郷の歌
『なぞりがき百人一首』7番/阿倍仲麿
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、『小倉百人一首』では阿倍仲麿と表記されます。

天の原 ふりさけ見れば
春日なる
三笠の山に 出でし月かも
阿倍仲麿
(現代語訳)
大空を仰ぎ見て遠く眺めると月が出ている。
この月は祖国の都の東に広がる春日の三笠山から昇るのを見た、あの月と同じなのだなあ。(やっと故郷に帰れるぞ)
『古今集』には、中国での長年の留学生活を終えて帰国する、その惜別の折に月が美しくのぼったのを見て詠んだとあります。
阿倍仲麿(698-770)19歳のとき、遣唐使として唐・長安に渡る。27歳で科挙に合格、皇帝・玄宗に仕える。唐名は朝衡。李白などの宮廷文人らと交流を深める。途中帰国を試みるも海難に遭い断念。73歳で唐に客死した。
この歌を詠んだ時点で、阿倍仲麻呂は遣唐留学生として17歳で入唐してからすでに30年の歳月が流れていました。
いよいよ帰国という時に、故郷への思いがこみあがってきて詠まれた歌です。
しかし、海難に遭い帰国は叶いませんでした。
命がけの遣唐使・仲麻呂の望郷の歌を『万年筆のある毎日』の「堂鳩」でなぞりました。

安倍文珠院に建つ安倍仲麻呂の歌碑
奈良県桜井市にある「安倍文珠院」は奈良時代に安倍倉梯麻呂が安倍一族の氏寺として建立した「安倍寺」が、鎌倉時代に現代の地に移転されたものです。
阿倍仲麻呂は安倍文殊院のある「安倍山」で生まれたといわれています。
➡歌碑巡り【阿倍仲麻呂望郷の歌】安倍氏の氏寺「安倍文殊院」奈良県桜井市
その安倍文珠院に阿倍仲麻呂の歌碑が建っています。

味のある揮毫は書家の榊莫山氏によります。
莫山先生は大和の仏像や自然との深い交流を創作へ結びつけられた奈良とゆかりの深い方です。
阿倍仲麻呂と「安倍仲麿」:表記に隠された歴史の物語
歌碑に刻まれた「安倍仲麻呂」と、『小倉百人一首』に記された「阿倍仲麿」。同じ人物なのに、なぜ表記が異なるのでしょうか。
この違いは、それぞれの時代で用いられた漢字の慣習を反映した、歴史の時間の流れを表す興味深い物語です。
奈良時代から平安時代にかけて、氏名(うじめい)の表記は一定ではありませんでした。 「阿倍」と「安倍」は、同じ氏族でありながら、時代や書物によって表記が揺れることがよくありました。同様に、名前の「仲麻呂」も、当時の音韻的な慣習から「仲麿」と表記されることがありました。
そして、私たちが現在目にする『小倉百人一首』の表記は、江戸時代に広く普及した版木に基づいています。 この時代に一般的に使われていた表記が「安倍仲麿」だったため、それが定着し、現代にまで受け継がれています。
一方、現代の歴史学や教育の分野では、当時の公式な記録に基づき、より正確な「阿倍仲麻呂」という表記が一般的です。
この違いは、奈良県桜井市にある安倍文殊院の歌碑を見ると、より明確になります。このお寺は、阿倍仲麻呂を輩出した古代豪族「阿倍氏」の氏寺であり、仲麻呂が生まれた地であると伝えられています。そのため、歌碑は寺院名に合わせ、歴史的なつながりを示す意図をもって「安倍仲麻呂」と表記されているのです。
このように、歌碑と『小倉百人一首』の表記の違いは、歴史の時間の流れと、場所や文化的な背景によって変わる、漢字の慣習を私たちに教えてくれます。 どちらも同じ人物を指していますが、その表記には、時代ごとの文化や歴史的な経緯が反映されているのです。
使用したなぞり書きの本
なぞりがき百人一首 ユーキャン学び出版(2020/10/23)
本の内容についてはこちらの記事で詳しくご紹介しています。
➡堂鳩でなぞる【なぞりがき百人一首】1番/天智天皇【万年筆のある毎日】
使用した万年筆インクとガラスペン
黒を愉しむ万年筆インク6色セットつき 万年筆のある毎日
COCOUNITYガラスペンセット
ガラスペンで愉しむなぞり書き
なぞり書きに使っている万年筆インクとなぞり書きの本のまとめページを作っています。
最後までお読み頂きありがとうございます。