推古天皇が竹田皇子と眠る【磯長山田陵】大阪府太子町は皇族の陵墓が集中する「王陵の谷」

※当サイトではアフィリエイト広告を利用しています。

飛鳥・藤原マスターになりたいみくるです。

2024年2月10日に実施された「飛鳥・藤原まるごと博物館検定」の学習を通して、推古天皇が592年に豊浦宮で即位したことが飛鳥時代を捉える上で重要な出来事であることを知りました。

受験した「第1回飛鳥・藤原まるごと博物館検定(初級編)」についてはこちらの記事でご紹介しています。
目指せ!飛鳥・藤原マスター【飛鳥・藤原まるごと博物館検定】受験を終えての感想と学習のポイント

今回は宮内庁により推古天皇と竹田皇子の合葬陵墓に治定されている大阪府南河内郡太子町の「山田高塚古墳」についてご紹介します。

アイキャッチ推古天皇陵
スポンサーリンク

推古天皇 磯長山田陵・竹田皇子墓

宮内庁により「磯長山田陵しながのやまだのみささぎ」および「竹田皇子墓たけだのみこのはか」として第33代推古天皇・竹田皇子の合葬陵墓に治定されている「山田高塚古墳・高松古墳」は、大阪府南河内郡太子町にある方墳(または長方形墳)です。

推古天皇陵1

推古天皇が眠るとされている古墳は、田畑の広がる静かな美しい所にありました。

南側から坂を登り拝所に向かいます。

推古天皇陵2

実際の被葬者は定かではありませんが、宮内庁により「推古天皇 磯長山田陵」および「竹田皇子墓」に治定されています。

竹田皇子は敏達天皇と推古天皇の皇子です。
皇位継承の有力候補でしたが、若くして亡くなったと考えられています。

推古天皇陵3

墳丘は3段築成で、1段目は正方形、3段目は長方形ですが、1段目形状には後世の改変の可能性が指摘されています。
埋葬施設は明らかではありませんが、東西に長い墳丘の特徴から、横穴式石室2基が東西に並び、いずれも南方に開口したと推定されます。

推古天皇陵4

拝所からの眺めです。
長閑な田園風景が広がっていました。

推古天皇陵 拝所からの眺め
推古天皇陵 墳丘からの眺め2

『日本書紀』に、推古天皇36年(628年)3月ののち、同年9月に遺詔により「竹田皇子之陵」に葬ったとありますが、所在地・陵名に関する記載はありません。

『古事記』には、「御陵在大野岡上、後遷科長大陵也」として「大野岡上」から「科長大陵」への改葬の旨が見えます。
改葬される前の竹田皇子と推古天皇の初葬墓としては、奈良県橿原市の「植山古墳」が有力視されています。

推古天皇は民衆が飢えているのに、豪華な墓は作らないでほしい、ただ我が子と一緒に埋葬してほしいと願ったそうですが、このような立派な陵墓になってしまったのは、権力を誇示したい蘇我氏の思惑によるものと言われています。

推古天皇陵

南側から見た全景です。

推古天皇陵 南から見た全景

推古天皇陵から南東へ200mほどの所にある「二子塚古墳」も双方墳であることから、推古天皇・竹田皇子の真の合葬陵墓に比定する説もあるそうです。
墳丘に登れて石室も見れるらしいのですが、整備工事中で立ち入れませんでした。

同様に1つの墳丘に2つの石室をもった方墳として、西に500メートルほどの所にある「葉室塚古墳」があります。
被葬者は定かではありませんが、考古学的に天皇陵クラスの古墳であることは確かとされています。

飛鳥時代はじまりの地「豊浦宮」

『日本書紀』によると、推古天皇は崇峻5年(593年)に豊浦宮とゆらのみやで即位されました。

豊浦宮は飛鳥地域に初めて置かれた宮です。
豊浦宮が置かれた593年を飛鳥時代のはじまりとします。

豊浦寺跡

推古天皇が即位した「豊浦宮」についてはこちらの記事でご紹介しています。
飛鳥時代はここから始まった!【推古天皇の豊浦宮】豊浦寺跡(向原寺)

スポンサーリンク

推古天皇 磯長山田陵へのアクセス

大阪府南河内郡太子町山田3320-2

駐車場はありません。

「道の駅 近つ飛鳥の里・太子」に車を停めて歩きました。
徒歩20分ほどの距離です。

推古天皇陵へのアクセス

梅鉢御陵・王陵の谷

大阪府太子町の聖徳太子ゆかりの天皇陵4基(推古天皇陵用明天皇陵孝徳天皇陵敏達天皇陵)に聖徳太子廟を加えた5つの古墳は、それぞれの位置を結んだ様子が梅の花の形に似ていることから「梅鉢御陵」と呼ばれています。
また皇族の陵墓が集中していることから「王陵の谷」とも呼ばれています。

「梅鉢御陵」・「王陵の谷」の言葉の響きを素敵に思い、他の四つの古墳にも行って来ました。

用明天皇 河内磯長原陵

用明天皇は第31代天皇で聖徳太子の父です。
即位からわずか2年で崩御され、『日本書紀』に「磐余池上陵」に葬られた後、推古天皇の時代に「河内磯長原陵」に改めて葬られたと記録されています。

東西65メートル、南北60メートル、高さ10メートルの方墳で、周囲には幅7メートルの空濠を巡らせており、この濠の外堤までを含めた規模は、一辺100メートルに達する巨大な規模を有しています。
墳丘規模や形は、蘇我馬子の墓と言われる石舞台古墳とよく似ているそうです。

用明天皇 河内磯長原陵

孝徳天皇 大阪磯長陵

孝徳天皇は第36代の天皇で乙巳の変の後に即位されました。
中大兄皇子と関係が悪化し、難波の宮で孤独のうちに亡くなられたというお話を読んでいたので、どのような所に葬られているのかと思っていました。

直径約30mの円墳と他の天皇陵と比べると小規模ながら、静かな眺めの良い所にありました。

被葬者は明らかではありませんが、宮内庁により「孝徳天皇 大阪磯長陵」として管理されています。

孝徳天皇 大阪磯長陵

敏達天皇 河内磯長中尾陵

敏達天皇は572年に即位された第30代天皇です。
父は欽明天皇、皇后は推古天皇です。
拝礼所は木々の間を進んだ静かな所にありました。

在位14年に48歳で亡くなられ、陵について『日本書紀』では「譯訳田天皇(敏達天皇)を磯長の陵に葬めまつりき。こはその妣(母)の皇后の葬りためひし陵なり。」と記されています。
先に亡くなられた石姫皇后の墓と合葬されています。

太子町で最初につくられた天皇陵で、唯一の前方後円墳です。
天皇陵としては最後の前方後円墳かつ、埴輪列を有する最後の御陵ともいわれています。

周囲を歩くことはできませんが、地図でみると大きな空壕があるのが分かります。

敏達天皇 河内磯長中尾陵

聖徳太子廟(磯長墓)

聖徳太子自らが廟地として選定された磯長廟は、奈良県から二上山を越えて河内に入った叡福寺境内の北側にあります。
聖徳太子と、その二ヶ月前になくなられた太子の生母穴穂部間人皇后と、一日前に亡くなられた太子夫人膳部大郎女とを葬る三骨一廟です。

聖徳太子が二十七歳の時に神馬甲斐の黒駒に乗り、天上を駆けて富士山頂に至った折、西方より五色の光を見出してこの地を望まれました。
太子は比類のない霊地だと悟られ、この地を自らの墓所と定められました。

聖徳太子廟(磯長墓)

それぞれの古墳の詳細については別に記事にしてご紹介する予定です。

最後までお読み頂きありがとうございます。

スポンサーリンク