里中満智子さんの『天上の虹』を読んで、古代史と万葉集に興味を持ったみくるです。
飛鳥や大和古道を歩くと、遥か1300年以上前の風景がふっと目の前に広がるような気がします。田畑の間にひっそりと残る遺構や、歌碑に刻まれた言葉は、まるで昔の人々の息づかいや想いをそっと伝えてくれるかのようです。

今回ご紹介する「東池尻・池之内遺跡」は、『日本書紀』にも登場する「磐余池」の有力な推定地。さらに、悲劇の皇子・大津皇子の辞世歌碑もこの地に建てられ、考古学と文学の二重の視点から古代の世界を感じられます。
のどかな田園の中を歩きながら、かつてここに広がった池の水面に映る宮殿や、人々の生活、そして詠まれた歌の響きを思い描く――そんな時間を楽しむ散策に、あなたも出かけてみませんか。
東池尻・池之内遺跡(磐余池推定地)を歩く
古代ロマンの舞台「磐余池」とは?
『古事記』や『日本書紀』に登場する「磐余池(いわれのいけ)」。舒明天皇の宮や、飛鳥の政治史とも深く結びつき、古代ヤマトを語るうえで欠かせない存在です。しかし、その正確な場所はいまだに特定されていません。
奈良県橿原市東池尻町に広がる「東池尻・池之内遺跡(ひがしいけじり・いけのうちいせき)」は、考古学的な調査から磐余池の跡ではないかと注目される場所です。

磐余池は、履中天皇が築造したとされ、歴代天皇の宮殿が近くに置かれるなど、大和政権にとって重要な場所でした。また、『万葉集』では、謀反の罪で刑死を命じられた大津皇子が、この池のほとりで辞世の歌を詠んだ場所としても知られています。
『日本書紀』において、磐余池に関する記述は主に履中天皇と継体天皇の箇所に見られます。
履中天皇の記述
『日本書紀』の履中天皇2年11月の条に「磐余池を作る」という記述があり、これが磐余池の築造を伝える最も古い記録とされています。また、履中天皇3年11月には「天皇、両枝船を磐余市磯池に泛(うか)べたまふ」とあり、天皇が皇妃と共にこの池で船遊びをしたことが記されています。この時、酒杯に落ちた季節外れの桜の花をきっかけに、宮の名前が磐余稚桜宮と定められたと伝えられています。
継体天皇の記述
『日本書紀』の継体天皇7年9月の条では、天皇の葬儀に関連する歌謡の中で磐余池が詠まれています。
これらの記述は、磐余池が古代において、天皇の宮殿や儀式に深く関わる重要な場所であったことを示しています。
発掘調査で見えてきた池の姿
東池尻・池之内遺跡遺跡は、古代に築かれた巨大な人工の池の跡であり、平成23年(2011年)の発掘調査によって、池に水をせき止めるための堰堤跡(えんていあと)が発見されたことで、その存在が裏付けられました。

この堤は、長さ約300m、幅約20~55m、高さ約2~3mの土手状の「高まり」として残っており、南に広がる谷を塞ぐ形で築かれています。この発見は、長らく論争が続いていた磐余池の場所を特定する上で大きな転機となりました。
現地案内板より引用させていただきます。
東池尻・池之内遺跡(磐余池推定地)
古代に築かれた巨大な人工の池の跡です。戒外川の東岸から西方の御厨子神社が位置する丘陵にかけて、長さ300m、幅20~55m、高さ2~3mの土手状の「高まり」が存在しています。南に広がる谷を塞ぐ位置にある、この「高まり」が池の堤の跡です。古代には堤の南側に巨大な池が広がっていました。堤は丘陵の延長部分に盛土を施して築かれています。現在、堤の上は畑や宅地に、池の部分は水田となっています。
堤は6世紀後半には存在しており、堤の上では6世紀後半~7世紀前半の建物や塀が多数発見されています。藤原京の時代(7世紀末~8世紀初頭)には、堤の一角に水量調整用と考えられる深さ4m以上の大溝が掘られています。堤の外(北)側の裾付近には石敷が施されている地点もあります。池は12~13世紀頃には埋没して耕作地になったようです。
この池は『日本書紀』や『万葉集』にたびたび登場する「磐余池」にあたるのではないかと考えられています。
平成27(2015年)3月 橿原市教育委員会
周辺の地形を重ねると、池は谷状に広がり、アメーバのような複雑な形をしていたと推定されています。現在、堤の上は畑や宅地になっていますが、池の部分は水田として利用されています。

発掘調査では、堤の上から6世紀後半から7世紀前半の建物や塀の跡が多数見つかっているほか、藤原京の時代(7世紀末~8世紀初頭)には、水量調整用とみられる深さ4m以上の大溝も掘られていたことが確認されています。

現在は田畑が広がるのどかな風景ですが、かつては王権の中枢を支える大きな水面がここにあったのかもしれません。
文学と記憶 ― 大津皇子の歌碑
磐余池(磐余池推定地)には、悲劇の皇子として知られる大津皇子(おおつのみこ)が辞世の句を詠んだとされる場所に、その歌を刻んだ歌碑が建てられています。

歌碑は、奈良県橿原市東池尻町にある御厨子観音妙法寺(みずしかんのんみょうほうじ)の境内の近くにあります。

歌碑に刻まれているのは、大津皇子が謀反の罪を着せられ、死を賜る直前に詠んだとされる、次の有名な歌です。
百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を
今日のみ見てや 雲隠りなむ
この歌碑の揮毫は、奈良大和路を撮り続けた高名な写真家、入江泰吉氏によるものです。悲劇的な皇子の最期の歌と、その歌が詠まれた場所の風景を、多くの人々に伝えています。

磐余池の歌碑を訪れることで、古代の歴史的背景と、一人の皇子に降りかかった悲劇を、より深く感じることができます。
大津皇子の辞世の句の歌碑については、こちらの記事で詳しくご紹介しています。
磐余池の推定地と、大津皇子が最後に詠んだ歌。田園の中を歩きながら、その二つが重なる瞬間に出会えるのは、ここならではの体験です。
現地散策の楽しみ方
東池尻・池之内遺跡を訪れたら、周辺の歴史スポットもあわせて巡ってみるのがおすすめです。のどかな田園風景の中に、古代史や信仰にまつわる社寺が点在していて、小さな旅気分を味わえます。
- 若桜神社(わかざくらじんじゃ)
境内は、磐余池を造った履中天皇の宮にゆかりがあると伝えられ、厳かな空気が漂います。 - 稚櫻神社(わかざくらじんじゃ)
若桜神社と対をなすように存在し、地名や伝承に古代の歴史が息づいています。 - 御厨子観音妙法寺(みずし かんのん みょうほうじ)
古くから信仰を集めてきた観音さまのお寺。古代の水辺と人々の祈りの関わりを想像させてくれます。 - 御厨子神社(みずしじんじゃ)
地域に根ざした神社で、素朴ながらも古代の面影を感じることができます。
こうして歩いてみると、東池尻・池之内遺跡がただの「遺跡」ではなく、地域全体の歴史や信仰の文脈の中に生きていることが実感できます。遺跡とあわせて訪ねることで、古代のロマンがさらに深まるでしょう。
まとめ|橿原市・桜井市で古代天皇や皇子ゆかりの地を歩く
東池尻・池之内遺跡、御厨子観音妙法寺、御厨子神社(橿原市)をはじめ、若桜神社、稚櫻神社(桜井市)といった社寺や伝承の地をめぐると、橿原・桜井の地がいかに古代天皇や皇子と深く結びついた土地であるかを実感できます。
- 履中天皇の宮にまつわる伝承が残る若桜神社・稚櫻神社
- 大津皇子の辞世の歌碑が建つ東池尻・池之内遺跡(磐余池推定地)
- 『日本書紀』に登場し、舒明天皇や天武天皇の時代に政治や儀式の舞台となったと伝わる磐余池

橿原・桜井の田園にひっそりと残る社寺や遺跡は、単なる観光スポットではなく、古代の天皇や皇子たちの足跡を今に伝える「生きた歴史の証」。現地を訪ね歩くことで、文字だけでは味わえない古代のロマンを体感できるでしょう。
「古代天皇の宮シリーズ」では、これからも橿原・桜井を中心に古代の宮や伝承の地を紹介していきます。歴史好き・古代史ファンの散策の参考になれば幸いです。
東池尻・池之内遺跡(磐余池推定地)へのアクセス
- 所在地:奈良県橿原市東池尻町
- 近鉄大阪線 大福駅 から徒歩約20分
- 西名阪自動車道・名阪国道「天理IC」から約30分
※現地に専用駐車場はないため、周辺のコインパーキングや桜井駅周辺の駐車場を利用してください。 - 大津皇子の歌碑は、妙法寺(御厨子観音)のすぐ横にあります。
最後までお読み頂きありがとうございます。