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【吉備池廃寺跡】舒明天皇勅願の百済大寺の歴史をたどる(奈良県桜井市)

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古代史と記紀の世界に夢中なみくるです。
奈良県桜井市にある吉備池廃寺跡(きびいけはいじあと)」は、舒明天皇の勅願で建立されたと伝わる「百済大寺(くだらのおおでら)」の跡地で、国の史跡にも指定されている歴史的価値の高い遺跡です。

金堂と塔の基壇が残るこの場所では、7世紀の飛鳥時代の国家寺院の威容を感じられるだけでなく、当時の天皇権力や国家仏教の息吹を体感できます。

吉備池廃寺跡のアイキャッチ画像
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古代史と記紀ファンに人気の吉備池廃寺跡

吉備池廃寺跡の概要と遺構

1997年に行われた発掘調査によって確認された塔基壇や金堂跡は、その規模や配置から、吉備池廃寺跡が国内最大級の官寺であったことを示しています。

吉備池廃寺跡の現地案内板

寺院は南面し中心伽藍は東に金堂、西に塔を置き、両者を回廊が囲み中門は金堂の前(中軸線の東寄り)で検出され、左右対象でない伽藍配置が確認されています。金堂、塔基壇は当時の寺院の中では突出した大きさで、特に塔の基壇は、文武天皇の時に建立された大官大寺に匹敵する規模であることから九重塔(高さは80~90m)であったと考えられ、創建時期は出土した瓦から7世紀中頃と思われます。  

これらの規模は、同時期の山田寺や川原寺を大きく上回り、国家の威信を示す官寺であったことを裏付けます。瓦の年代も639年前後に一致し、『日本書紀』に記された百済大寺の創建年代とほぼ同じです。

『日本書紀』の記述との一致

  • 舒明天皇11年(639年)の記事に「百済大寺を造る」と明記されています。
  • 吉備池廃寺の発掘調査で出土した瓦の年代が 7世紀前半(639年前後) に合致。
    → 文献と遺構の年代が一致しています。

これらのことから、吉備池廃寺跡は天皇の発願による最初の寺院であり、舒明天皇11年(639年)に建立が始まった「百済大寺(くだらのおおでら)」の跡であると考えられています。

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舒明天皇の勅願で建てられた百済大寺

『日本書紀』によれば、舒明天皇は国家の安泰と仏法興隆を願い、官寺として百済大寺の建立を勅しています。飛鳥寺が蘇我氏の氏寺であったのに対し、百済大寺は天皇直轄の寺院として建てられ、七重塔や金堂を備えた大規模寺院でした。当時の政治・宗教的意図が感じられる重要な建造物であり、古代史ファンにとって見逃せないスポットです。

百済大寺から「大官大寺」へ、その後の驚きの変遷

百済大寺は長くは続きませんでした。『日本書紀』には、天智9年(670年頃)に百済大寺が火災で焼失したと記録されています

天武天皇の時代に火災が多発したことから、寺は高市郡(現在の橿原市)に移転。この時、寺号が「高市大寺」、そして「官大寺」の筆頭を意味する「大官大寺」へと改称されました。これは、天皇の勅願寺として、より公的な役割を担うようになったことを示しています。

百済大寺は、創建からわずか数十年で、その姿を大きく変えることになるのです。

平城京への移転、そして現在の「大安寺」へ

奈良時代に入り、都が平城京へ遷されると、大官大寺もそれに伴い現在の奈良市に移転します。この時、道慈という僧侶が中心となって伽藍を整備し、最終的に大安寺と名を改めました。

これにより、百済大寺から始まった寺院の歴史は、平城京の南都七大寺の一つとして、国家仏教の中心を担う大寺院として引き継がれていったのです。吉備池廃寺跡は、この壮大な物語の始まりの地であり、日本の古代史を語る上で欠かせない場所なのです

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大津皇子と大伯皇女の歌碑が物語る歴史の深さ

吉備池廃寺跡を訪れると、池のほとりにひっそりと佇む二つの歌碑に気づくでしょう。これは、悲運の最期を迎えた大津皇子(おおつのみこ)とその姉、大伯皇女(おおくのひめみこ)の歌を刻んだものです。

吉備池廃寺跡に建つ万葉歌碑

百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を
今日のみ見てや 雲隠りなむ

万葉集 巻3-416 大津皇子

吉備池廃寺跡に建つ大津皇子の歌碑

この歌に登場する「磐余の池(いわれのいけ)」は、吉備池のことではありません。しかし、吉備池が位置する場所は、古代の磐余の地に含まれていました。つまり、大津皇子が最期に見たであろう景色は、この地から見えた風景だった可能性が高いのです。

伊勢の斎宮(さいくう)であった大伯皇女もまた、弟の死を悼んで、故郷である大和国(現在の奈良県)を思い、悲しみの歌を詠みました。

吉備池廃寺跡の吉備池

壮大な国家プロジェクトであった百済大寺の跡地と、悲劇的な運命をたどった姉弟の物語。一見、関係のないように見える二つの歴史が、この場所で交差していることを、二つの歌碑は静かに私たちに語りかけているのです。
※歌碑の詳細は、別記事で詳しく紹介します。

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吉備池廃寺跡の散策の魅力

現在の吉備池廃寺跡には、金堂跡・塔跡の基壇が吉備池の築堤と重複して見られるのみですが、発掘調査の成果や現地解説板を通して、古代寺院の規模や伽藍の配置を想像することができます。

吉備池廃寺跡の現地案内板と吉備池

吉備池の南側の二つの高まりが、塔跡と金堂跡です。

吉備池廃寺跡の遺構「金堂跡」(Wikipedia)

吉備池廃寺跡の遺構(金堂跡)

吉備池廃寺跡の遺構「塔跡」(Wikipedia)

吉備池廃寺跡の遺構(塔跡)

吉備池廃寺跡は、四季折々の自然景観と合わせて、歴史と自然が一体となった散策が楽しめるスポットです。

まとめ|吉備池廃寺跡でたどる飛鳥時代の国家寺院

吉備池廃寺跡は、舒明天皇勅願の百済大寺跡として国の史跡に指定されている歴史的遺跡です。焼失した後も、寺院としての機能は大官大寺へ移行し、平城京遷都に伴い奈良市の大安寺として再興されました。
現在は、金堂跡と塔跡の基壇が残るのみですが、水域を含む回廊や池の景観を想像することで、飛鳥時代の国家寺院の息吹を感じられます。さらに、大津皇子や大伯皇女の歌碑もあり、古代皇族の思いや景観へのこだわりにも触れることができます。吉備池廃寺跡を訪れると、古代史と記紀の世界を立体的に体感できるでしょう。

吉備池廃寺跡へのアクセス

奈良県桜井市橋本51-16

駐車場はありません。
桜井駅(近鉄線・JR線)から徒歩約30分です。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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