古墳と古代史が好きなみくるです。
前回は蘇我稲目のお墓とも言われる「都塚古墳」をご紹介しました。
今回は、蘇我入鹿のお墓とも言われる「菖蒲池古墳」をご紹介します。類例のない精巧な造りの家形石棺が2基並んでいることで知られる古墳です。
菖蒲池古墳
菖蒲池古墳の墳丘
菖蒲池古墳は橿原市の南東部、明日香村との境界線付近に位置しています。道路を挟んで東側は明日香村です。
2010年の発掘調査により一辺約30m、二段築成の方墳であることが明らかになりました。
国の史跡に指定されています。
墳丘基底部の一部に版築による盛土が採用されています。
墳丘北側・東側・西側には掘割が巡らされるほか、墳丘表面では赤灰色粘質土による化粧が、古墳前庭・掘割底面(一部)・上段墳丘裾平坦面では礫敷が認められており、墳頂部では磚(東洋建築に用いられた煉瓦)の使用可能性があります。
菖蒲池古墳は、国内で最も優美な2基の家形石棺が納められている古墳として古くから有名で、昭和2年(1927年)には、石室部分が国史跡に指定されました。
しかし、墳形や規模などは、まったく不明でした。そこで平成21年(2009年)度から4年にわたり、橿原市が発掘調査を実施し、古墳のすがたを明らかにしました。そして、平成27年(2015年)には墳丘とその周辺の範囲が国史跡に追加されました。
菖蒲池古墳の説明板
菖蒲池古墳の石室
石室は建屋の下にシートで覆われていますが、ガラス戸を開けて自由に見学できます。
墳丘基底面に築かれた南に開口する両袖式横穴式石室です。
玄室内には、兵庫県加古川流域産の竜山石製の、精緻な造りの刳抜式家形石棺2基が南北縦一列に据えられています。内面のみに漆(北棺は朱漆、南棺は不明)の塗布も認められます。
2つの家形石棺が縦に並んでいる様子が確認できて感動しました。
築造時期と被葬者
出土土器等から古墳時代終末期・飛鳥時代の7世紀中頃の築造と推定されます。被葬者は明らかでありませんが、蘇我入鹿の墓とする説が有力です。
蘇我蝦夷のお墓とされる「小山田古墳」の石棺をこちらに移したとのではないかと考えられています。小山田古墳は乙巳の変の後に徹底的に破壊された為、近年まで存在が明らかになっていませんでした。
破壊はしたものの、死者はきちんと弔いたいと思ったのでしょうか?蝦夷の石棺を入鹿の石棺の隣に移したようです。小山田古墳は養護学校の敷地内にあるため見学はできません。
墳丘からの眺めです。写真左手に小山田古墳のある養護学校があります。
近年の発掘調査の成果
近年の発掘調査の成果が発表されました。
飛鳥時代の権力者、蘇我蝦夷(えみし)らの墓とされる小山田古墳(7世紀中頃、奈良県明日香村)について、東西約300メートル規模の墓域(ぼいき)が存在し、墳丘規模は想定よりも大きい約90メートル四方に及んだとする新説が、先月出版された論文集「古墳と国家形成期の諸問題」(白石太一郎先生傘寿記念論文集編集委員会編、山川出版社)で発表された。
小山田古墳は想定より巨大か 奈良芸術短大教授が新説 – 産経ニュース (sankei.com)
今回発表された説によると、小山田古墳は飛鳥時代最大の方墳で、墳丘規模は想定よりも大きい約90メートル四方に及んだと考えられるそうです。
家形石棺が収まっていた石室は石舞台古墳のそれより大きかったのかもしれません。
こちらが石舞台古墳です。古墳時代後期(7世紀初め頃)に作られた、巨大な石室をもつ方墳または上円下方墳です。蘇我馬子の墓とする説が有力です。
石舞台古墳は墳丘の盛り土(封土)が全く残っておらず、石室が露出した状態になっています。
実際に見るとその大きさに驚くのですが、小山田古墳が石舞台古墳よりも大規模ならば、とてつもない大きさだろうと思います。
今回の発掘調査の成果で、都塚古墳、石舞台古墳、菖蒲池古墳、小山田古墳が蘇我氏のお墓であることがほぼ確定したのではないでしょうか?
時代は蘇我氏から、中大兄皇子と中臣鎌足、そして藤原氏へ。権力者の変遷にしみじみします。
菖蒲池古墳へのアクセス
奈良県橿原市菖蒲町4丁目43-2
駐車場はありません。
最寄り駅の近鉄岡寺駅より徒歩約9分です。
最後までお読み頂きありがとうございます。