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【万葉集巻3-415】聖徳太子が詠んだ慈悲の歌~桜井市上之宮・春日神社の歌碑を訪ねて

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山岸涼子さんの名作『日出処の天子(ひいづるところのてんし)』を読んで、聖徳太子の複雑で波乱に満ちた生涯を追いたくなったみくるです。

聖徳太子ゆかりの地、奈良県桜井市上之宮に鎮座する「春日神社」には、太子の深き慈悲の心が込められた歌碑が建っています。この地を訪れた際には、ぜひ太子の心の軌跡を感じてみてください。

桜井市上之宮に鎮座する春日神社
桜井市上之宮に鎮座する春日神社
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聖徳太子の慈悲を伝える歌碑:桜井市 上之宮春日神社

万葉集に残る唯一の聖徳太子の歌

『万葉集』には、約4,500首もの歌が収められていますが、その中でたった一首だけ、聖徳太子(厩戸皇子)の歌として伝わる歌があります。それが巻3の415番歌です。

奈良県桜井市上之宮に鎮座する「春日神社」の境内には、この歌を刻んだ万葉歌碑が静かに建っています。

春日神社の境内に建つ聖徳太子の歌碑

(題詞)
上宮聖徳皇子出遊竹原井之時、見龍田山死人悲傷御作歌一首

(原文)
家有者 妹之手将纏 草枕
客尒臥有 此旅人𪫧怜

(読み下し)
家にあらば 妹が手まかむ 草枕
旅に臥やせる この旅人あはれ

(現代語訳)
家にいたならば妻の手を枕にしているであろうに、草を枕の旅路に倒れて亡くなったこの旅人よ。ああ、なんと哀れなことか。

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題詞が語る歌の背景

『万葉集』にはこの歌の題詞(歌の前書き)として、次のように記されています。

(原文)
上宮聖徳皇子出遊竹原井之時、見龍田山死人悲傷御作歌一首

(現代語訳)
上宮聖徳皇子が竹原井に出遊された時に、龍田山で死人を見て悲しんで作られた御歌一首

竹原井は現在の大阪府柏原市高井田付近、龍田山は奈良県生駒郡から大阪府柏原市にまたがる山地です。聖徳太子が大和から河内へ向かう道中で、行き倒れた旅人と出会い、その死を悼んで詠んだ歌とされています。

「行路死人歌」という祈りの形

万葉挽歌の冒頭を飾る歌

『万葉集』巻3は前半を雑歌、後半を挽歌で構成されていて、この歌は後半の挽歌の最初に置かれた一首です。

挽歌(ばんか)」とは、人の死を悼み、その魂を鎮めるために歌われる歌です。その中でも特に「行路死人歌(こうろしにんか)」と呼ばれるジャンルがあります。これは、旅先で飢えや病、あるいは不慮の災難によって亡くなった見知らぬ旅人を悼む歌です。

古代の旅人が直面した過酷な現実

古代において、旅は命がけの行為でした。街道は整備されておらず、宿場も少なく、食料の確保も困難でした。さらに、旅する人は「異郷の者」として、たとえ人里近くで倒れても容易に助けを得られなかったのです。

野ざらしとなった死者は、「死のけがれ」として恐れられ、村人たちも近づこうとしませんでした。その魂は行き場を失い、荒ぶる霊として道行く人々を脅かすと信じられていました。

だからこそ、行路死人歌には鎮魂の祈りが込められています。歌を捧げることで、異郷の土となった死者の魂を慰め、安らかに鎮まってもらおうとしたのです。

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「聖(ひじり)」が詠むことの意味

『万葉集』の編纂時(8世紀半ば)、聖徳太子は既に伝説上の人物として崇敬されていました。挽歌部の冒頭に、この「聖なる人」が詠んだ行路死人歌を置くことで、鎮魂歌としての正統性と権威が確立されたのです。

聖徳太子という理想的な為政者が、見知らぬ旅人の死さえも深く悼み、慈悲の心を歌に託した――この姿勢が、後世の人々に大きな影響を与えたことは想像に難くありません。

歌の表現を読み解く

家にあらば妹が手まかむ

妹(いも)」は古語で「妻」や「愛しい女性」を意味します。「手まかむ」は「手を枕にするだろう」という意味です。

この一節には、家庭の温かさ、妻の愛情、安らぎの夜が凝縮されています。家にいれば当たり前に享受できた幸せが、この旅人にはもう永遠に訪れないという無常感が込められています

「草枕」という枕詞の哀しみ

草枕」は「旅」にかかる枕詞ですが、ここでは単なる修辞ではありません。文字通り、草を枕にして倒れている旅人の姿を生々しく伝えています

妻の柔らかな腕を枕にする温もりと、冷たい草を枕にして独り息絶える孤独――この対比が、旅人の無念と哀れさを際立たせています。

「この旅人あはれ」という呼びかけ

あはれ」は、深い哀れみと同情を表す感嘆詞です。太子は亡くなった旅人に向かって、まるで生きている人に語りかけるように「ああ、哀れなことよ」と呼びかけています。

この直接的で素朴な表現には、技巧を凝らした修辞よりも、むしろ真摯な慈悲の心が感じられます。仏教の慈悲の精神を体現した聖徳太子らしい、人間への深い思いやりが込められているのです

春日神社の境内の様子と聖徳太子の歌碑
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『日本書紀』の片岡山伝説との関係

似て非なる二つの物語

『日本書紀』推古天皇21年(613年)の条には、聖徳太子の有名な「片岡山の飢人伝説」が記されています。

その伝説では、太子が片岡山(現在の奈良県北葛城郡王寺町付近)で飢えた人に出会い、食べ物と自らの衣を与えます。翌日、近習が確認に行くと既に死んでおり、太子は丁重に埋葬を命じます。数日後、墓を開けてみると遺体は消え、太子が与えた衣だけが畳んで置かれていました。人々は「聖は聖を知る」と、太子をますます畏敬したという物語です。

『日本書紀』には、太子が詠んだとされる歌も記録されています。

しな照る 片岡山にいひに飢えて 臥せる
その旅人あはれ 親なしに なれりけめや
さす竹の 君はや無き飯に飢て 臥せる
その旅人あはれ

日本書紀版と万葉集版との相違点

項目日本書紀万葉集
場所片岡山(奈良県王寺町)龍田山(奈良・大阪境)
目的地片岡を遊行竹原井へ出遊
対象飢人(まだ生きている)死人(既に亡くなっている)
歌の内容「親はいないのか、主君はいないのか」という問いかけ「妻の元にいれば」という家庭への思い
物語性奇跡的な復活譚を含む説話鎮魂歌としての挽歌

同じモチーフが異なる形で伝承されたのか、それとも別の機会の出来事なのかは定かではありません。しかし、いずれにせよ聖徳太子が道端で苦しむ人々への深い慈悲の心を持っていたことを伝える物語として、後世に語り継がれてきました

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飢人から太子への返歌(『拾遺和歌集』より)

『日本書紀』の記述とは別に、平安時代に成立した『拾遺和歌集』には、飢人伝説に関連する歌がもう一首収められています。これは、飢人が息を引き取る前に、太子への感謝を込めて詠んだ返歌、あるいは太子の死を悼んだ歌として伝わっています。

(読み下し)
いかるがの とみの小川の 絶えばこそ
我が大君の 御名みな 忘れらめ

(現代語訳)
斑鳩(いかるが)の里を流れる富の小川の流れが、もしも絶えるようなことがあれば、その時こそわが大君(聖徳太子)の御名を忘れることがありましょう。(しかし、小川が絶えるはずがないように、私は決してあなたの御名を忘れません)

この歌は、聖徳太子が住んだ斑鳩宮近くの「富の小川」を永遠の象徴として引き合いに出し、太子の徳を永遠に讃える、非常に感動的な一首です。

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なぜ桜井市上之宮の春日神社に歌碑があるのか

聖徳太子の「上宮」伝承地

歌が詠まれたのは龍田山であるにもかかわらず、この歌碑が桜井市上之宮の春日神社に建てられている理由――それは、この地が聖徳太子ゆかりの「上宮(かみつみや)」の伝承だからです。

『日本書紀』には次のように記されています。

「是の皇子、初め上宮に居しき。後に斑鳩に移りたまふ」

「父の天皇、愛みたまひて、宮の南の上殿に居らしめたまふ。故、その名を称えて、上宮厩戸豊聰耳太子と謂す」

聖徳太子は幼少期から青年期にかけて、父・用明天皇の宮殿の南にある「上宮」で過ごしたとされています。その後、斑鳩宮(法隆寺のある地)へ移り住みました。

桜井市上之宮には「上之宮遺跡」があり、ここが聖徳太子の居住地「上宮」の有力候補地となっています。春日神社は、その上之宮遺跡に近接し、かつて上宮寺という太子ゆかりの寺院があった場所に建つ神社です

上之宮遺跡
上之宮遺跡
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歌碑設置の意義

つまりこの歌碑は

  • 龍田山で詠まれた歌を
  • 太子が生きた場所・上之宮で
  • 後世の人々が顕彰する

という形で建てられたものなのです。歌の成立地ではなく、作者ゆかりの地に建てることで、聖徳太子という偉大な人物への敬意と、この地が持つ歴史的重要性を表しているのです。

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聖徳太子歌碑を揮毫された間中定泉氏

春日神社境内に建つ聖徳太子の歌碑を揮毫されたのは、間中定泉(けんちゅう じょうせん)氏です。

春日神社の境内の境内に建つ聖徳太子の歌碑

間中定泉氏は、1963年(昭和38年)から1982年(昭和57年)頃まで、第105代法隆寺管長を務められ、大僧正の位にあった方です。

書に通じた名筆家でした。
1989年(平成元年)に80歳で亡くなられました。

法隆寺は聖徳太子が建立した寺院であり、その管長が揮毫されたというのは、この歌碑の格式と太子への崇敬の深さを物語っています

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達磨寺と達磨大師の伝承

『日本書紀』に記されている「片岡山の飢人伝説」は、後に達磨寺(奈良県王寺町)の建立と深く結びつき、さらに達磨大師の伝承へと発展しました。

聖徳太子は片岡山で出会った飢人に衣食を与え、亡くなった後、その場に手厚く葬りました。 後に太子が墓を調べさせると、棺の中に遺体はなく、太子が与えた衣服だけが畳んで残されていました。

この奇跡を見た人々は、飢人が中国禅宗の祖である達磨大師(だるま たいし)の化身であったと悟り、太子がその聖人の正体を見抜いていたことに感嘆しました。

このエピソードは、太子の並外れた識見と仏教的な徳を証明するものとされました。

飢人の正体は達磨大師の化身であるという解釈が広がり、太子の慈悲行と飢人の遺体が消失したという奇跡は、中国禅宗の祖である達磨大師(だるま たいし)の化身であったと解釈されるようになりました。このエピソードは、太子が聖人の正体を見抜いていた「聖は聖を知る」という太子の並外れた識見と仏教的な徳を証明するものとされました

飢人が葬られた場所とされる古墳(現在の達磨寺3号墳)の上に、達磨寺が建てられ、聖徳太子と達磨大師を祀る寺として、現在に至るまで信仰を集めています。

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聖徳太子の御誕生所、橘寺

聖徳太子の生涯を語る上で欠かせないのが、「橘寺(たちばなでら)」です。このお寺は、桜井市から程近い奈良県明日香村にあります。

橘寺の西門
橘寺の西門

橘寺は、聖徳太子の父である用明天皇の別宮、「橘豊日宮(たちばなのとよひのみや)」があった場所に建てられました。この橘豊日宮こそが、太子が574年(敏達天皇3年)にお生まれになった場所(御誕生所とされています。

橘寺と聖徳太子御誕生所の石碑
橘寺と「聖徳太子御誕生所」の石碑

橘寺の名前は、この地に橘の木が多く植えられていたことに由来すると伝えられています。法隆寺などと並ぶ太子の創建七大寺の一つとも数えられ、現在も多くの参拝者を集めています。

聖徳太子の歌碑が建つ上之宮春日神社から、太子のルーツである橘寺まで、明日香・桜井エリアは太子ゆかりの地を巡るのに最適な場所です。皆さんも歴史のロマンを感じる旅を楽しんでみてくださいね。

歌碑が建つ場所へ!上之宮春日神社のご案内

春日神社の境内は、桜井市上之宮の静かな里山に抱かれた、穏やかな空気に満ちています。歌碑は境内の一角に建ち、訪れる人を静かに迎えてくれます。

奈良県桜井市上之宮346

近鉄・JR「桜井駅」より南へ 徒歩約30分
駐車場はありません

上之宮春日神社の詳しい情報はこちらからどうぞ。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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