生まれも育ちも奈良県で、明日香が大好きなみくるです。
今回は、奈良県高市郡明日香村の橘寺をご紹介します。聖徳太子は、欽明天皇の別宮で橘の宮のあったこの地に、その第4皇子の橘豊日命(後の31代用明天皇)と穴穂部間人皇女を父母として御誕生されたと伝わります。
本堂(太子殿)のご本尊は、聖徳太子35歳の時、勝鬘経を講讃されたお姿とされる「聖徳太子座像」(国重要文化財)です。
聖徳太子ゆかりの橘寺
橘寺の創建
橘寺は、正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称する天台宗に属する寺院です。
創立年代は定かではありませんが、推古天皇14年(606年)、聖徳太子が『勝鬘経』を三日間にわたって講じた時、蓮の花が高く積もり、天皇がその地に寺を建立することを発願し、創建されたと伝わります。
『上宮聖徳法王帝説』では、聖徳太子が建立した七寺に数えます。
『日本書紀』に、天武天皇9年(690年)に尼坊が失火して十坊を焼いたという記述が見られるのが、文献上の初見です。「尼坊」とあることから尼寺であったことが分かります。
また、出土瓦には飛鳥寺式の素弁蓮華文軒丸瓦があることから、その建立が飛鳥時代前半に始まることが分かります。
境内の発掘調査では、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式の伽藍配置であったことが判明しています。
創建寺の寺域は、東側は飛鳥川のほとり、西側は亀石のあたりまであり、東西が850m、南北が650mと広大なものでした。現在の橘寺はその中心部分のみということになります。
すぐ北側には川原寺が、飛鳥川の右岸には飛鳥宮跡があります。
こちらの記事では、川原寺跡をご紹介しています。川原寺は天武天皇の時代にには、大官大寺・飛鳥寺とともに国家の大寺に列せられ、持統天皇の時代には、四大寺に数えられる重要なお寺でした。
橘寺の境内にある看板です。年表・伽藍配置・宝物が記してあります。572年「聖徳太子の生誕」、606年「伽藍設営」、1506年「多武峰僧兵橘寺に放火す」などとあります。歴史を感じますね。
ピンクの線で示されたのが、創建時の伽藍配置です。
橘寺の由来となった田道間守
『古事記』と『日本書紀』によると、第11代垂仁天皇の時、勅命を受けて常世の国へ不老長寿の薬を求めに行った田道間守が、10年の長い間苦労してようやく秘薬を探し求め、持ち帰ったところ、天皇は既にお亡くなりになっていました。田道間守は嘆き悲しみ、天皇の陵墓で自害したといいます。
この時、田道間守が持ち帰ったものを「非時香菓(ときじくのかくのみ)」といい、この実を蒔くと芽を出したのが橘(ミカンの原種)で、それからこの地を橘と呼ぶようになったと伝わります。
本堂に田道間守像が祀られています。
境内の見どころ
創建当初は66もの堂宇が立ち並ぶ大寺院でしたが、現在は江戸期に再建された本堂(太子殿)など、わずかなお堂を残すのみとなっています。
室町時代の聖徳太子坐像(重要文化財)をはじめ、善悪2つの顔が刻まれた二面石などがあり、3つの副柱の穴をもつ塔心礎が残ります。
本堂(太子堂)
元治元年(1864年)に本堂として再建された太子堂です。ご本尊として聖徳太子坐像が安置されています。
本堂奥の厨子に入っておられる聖徳太子坐像は、叔母の推古天皇に勝鬘経を講義している35歳のお姿です(重要文化財)。
本堂前の灯籠
本堂前に建つ灯籠は、飛鳥時代の講堂の礎石の上に建っています。発掘調査で明らかとなっている講堂の位置とはずれているので、動かしてきてここに置いたものと思われます。
創建当時のお堂は残っていませんが、境内のあちらこちらで当時の面影を見ることができます。
黒駒像
聖徳太子の愛馬と伝えられる黒駒は、達磨大師の化身とも言われます。聖徳太子は黒駒に乗って各地の説法に行かれました。
二面石
二面石は高さ約1mほどの飛鳥時代の石造物で、本堂(太子堂)の左横にあります。
左右に善相と悪相が彫られていて、人の心の二面性を表現しているといいます。
右善面、左悪面とありますが、どちらがどちらか分かりませんでした。
吉備姫王墓内にある猿石も二面石なので、同じようなもではないかなと思いました。お寺にあるから「我々の心の持ち方を現したもの」と教え的に「二面石」と呼ばれるようになったのかもしれません。
五重塔跡
落雷で焼失した五重塔の塔心礎(心柱の礎石)です。
柱孔は円柱の周囲三方に添柱を付した珍しい形のものです。現存すれば約38m余りの五重塔が建っていたことになります。
蓮華塚
蓮華塚は、聖徳太子が勝鬘経を講讃された時に降った蓮の花を埋めたところです。
大化の改新でこれを一畝と定め、面積の基準にしたので畝割塚とも呼ばれています。
阿字池
阿字池は、梵字の「ア」を形取り聖徳太子が作られたと伝えられています。
三光石
三光石は、聖徳太子が聖徳太子が勝鬘経を講讃された時に、日・月・星の光を放ったと伝わります。
往生院
阿弥陀三尊をご本尊とする往生院は、聖徳太子の念仏写経研修道場として平成9年(1997年)に再建され、多目的道場として活用されています。
道場内の格天井には、著名な画家が描かれた華の天井画が260点奉納されていて、浄土のような美しさです。
往生院の天井画については、こちらの記事で詳しくご紹介しています。
観音堂
新西国三十三箇所第10番札所で如意輪観音様が安置されています。
観音堂の御本尊として、厨子に入っていらっしゃる「木造如意輪観音坐像」は、六臂(腕が六本)で輪王坐( 片ひざを立てて両足の裏を合わせた座り方)です。
穏やかな表情でふっくらした感じの可愛らしお姿をされていました。
観音堂の鬼瓦
観音堂は、令和4年聖徳太子御誕生千四百年記念修復事業で修復されました。その際に劣化した鬼瓦が下ろされ、よく見て頂けるようにと、観音堂の横に置かれました。
この瓦は、安永6年(1777年)に本堂として再建され、慶応元年(1865年)に現在の位置に観音堂として引き直された大棟の鬼瓦です。西側端に鎮座し、長い間観音堂を厄災や雨水の侵入から守って来ました。
瓦の上にはへら書き文字がくっきり見え、「安永六」と書かれているのが分かります。
現在の観音堂には新調された鬼瓦が乗っています。こうして見上げると、そんなに大きく見えないのですが、近くで見たら大きなものでした。100㎏もあるのですね。
経堂
阿弥陀如来さまが安置されています。
護摩堂
五大明王さま、半跏の大黒天さま、文殊菩薩の三尊像さまが安置されています。
聖倉殿(収蔵庫)
日羅立像や地蔵菩薩立像などの寺宝が収蔵されています。春と秋に約1か月間特別公開されます(橘寺|秘宝・秘仏 特別開帳|祈りの回廊 [奈良県 秘宝・秘仏特別開帳])。
万葉歌碑
聖倉殿(収蔵庫)の横に、橘寺を詠んだ万葉歌碑が建っています。
こちらの記事で、会津八一の歌碑と、杉森節子さんの句碑と合わせてご紹介しています。3基とも橘寺の境内に建っています。
鐘楼
手水舎
手水舎の向こうはお手洗いと慈憩堂(休憩所)になっていて、自動販売機が設置されています。
東門(正門)
橘寺の正門です。橘寺は東を正面とした伽藍配置なので、東門が正門となります(多くのお寺は南を正面にして南に正門があります)。
創建時の橘寺は、東から西に塔・金堂・講堂が一直線に並んでいました。
正門前の狛犬は太子講(聖徳太子を信仰するグループ)の方が寄進されたものです。橘寺には聖徳太子に対する信仰がしっかりと息づいています。
東側は昔の道で狭く車も入りにくいので、駅からも近い西門から入られる方が多いのですが、昔も今も東門が正門です。
西門
西門は裏門ですが、飛鳥駅から近く、道が広い西門から来られる方が多いそうです。私もこちらから境内に入りました。
県道155多武峰見瀬線から見た橘寺です。「聖徳太子御誕生所」と書かれた石碑と万葉歌碑が建っています。
万葉歌碑はこちらの記事でご紹介しています。
西門前の大イチョウ
西門前の駐車場の一角に大イチョウがあり、晩秋には落ち葉が敷き詰められて黄色い絨毯のようになります。
2024年11月24日に撮影した時はまだ青々としていたので、2023年12月3日に撮影した写真を合わせてご紹介しています。紅葉の見頃は、例年11月下旬から12月上旬です。
橘寺の御朱印
橘寺の御朱印は本堂の入口前の納経所で頂けます。
新西国三十三霊場の第10番札所の御朱印「聖徳殿 」と聖徳太子御遺跡霊場の第8番札所「太子誕生所」の二種類の御朱印が頂けます。
納経料は、令和6年(2024年)8月1日より改訂され、500円になりました。
橘寺オリジナルの御朱印帳「和の朱印帳」「橘の実の朱印帳」も販売されています。
橘寺へのアクセスと駐車場
奈良県高市郡明日香村橘532
近鉄 橿原神宮前駅又は飛鳥駅より
明日香周遊バス 川原または岡橋本下車 徒歩5分
無料駐車場は西門前に二か所と東門(正門)前にあります。
橘寺の拝観料と拝観時間
拝観料は、大人400円です。
拝観時間は午前9時から午後5時まで(受付終了時間は午後4時30分)です。
橘寺の西門から出て裏参道を歩きます。長閑な田園風景にゆったりとした心持になります。
裏参道側からの入口です。この辺りにあった馬小屋で聖徳太子が御誕生されたとの伝承があります。
隣には万葉歌碑が建っています。柿本人麻呂が妻の死を悲しんで詠んだ歌です。
最後までお読み頂きありがとうございます。