『古事記』と『日本書紀』を学んでいるみくるです。今回は奈良県橿原市四分町に鎮座する鷺栖神社と記紀に見られる水鳥にまつわる説話をご紹介します。
橿原市四分町に鎮座する鷺栖神社
御由緒と御祭神
創建された年は不明ですが、延喜式神名帳に「鷺栖神社靫」と記されている式内社です。
境内に設置されている「鷺栖神社由緒略記」を引用させて頂きます。
当社は里人鷺栖八幡と称し「延喜式神名帳」に「鷺栖神社靭」とあり、「古事記垂仁天皇紀」に 鷺栖池の記事と「釋日本紀」所引「氏族略記」には鷺栖坂の「玉林抄」に「按するに鷺栖の地名今四分村に在り」と云い又、池坂も神社の附近にありました。
鷺栖神社境内の由緒略記
又右御祭神をもって大和三山の中心地点に創立されたものでありますが、その年代は詳かでありません。
しかし延喜式内社として古くから広く知られている事から考えてみると、たしかに千数百年以前の創立にかかるものと思われまさに藤原京以前の旧社であることは、うたがい得ぬ事実であります。
「古事記」によれば垂仁天皇の皇子たる本牟智和気皇子が出雲大社に御参拝の折、ここに お立寄りになり御祈願あらせられた事になっております。
なほ、「大和志」巻十四に「鷺栖神四分村に在り」、中古より鷺栖八幡と称せられ武神として崇敬高く、次で安産の守護神ともなり地方人からあがめられた」といふ意味のことが記されています。
尚同じく「鷺栖八幡」と称し、(城殿、小房、縄手 、醍醐、四分)の五大字で祭祀にあづかるといふことが記されて居ます。
御由緒書にもありますが、『古事記』垂仁天皇の条に、皇子の本牟智和気(誉田別命の『古事記』での表記)がいつまで経っても物が言えないため夢告に従い出雲大社へ参拝しようとしたとき、開花天皇の皇子である曙立王に「鷺栖池」において誓約をさせたことが記されています。なお「鷺栖池」の位置は現在では確認できません。
『日本書紀』には、三十歳になってなお物言わぬ誉津別命が、鵠を見て「あれは何物か」と初めて言葉を発したとあります。「鳥取造の祖である天湯河板挙が、飛んで行った鵠を出雲(または但馬)で捕らえて献上したので、姓を授けられ、鳥取造という。そして鳥取部、鳥養部、誉津部を定めた」と。このお話が「鳥取」の由来です。
このように「記紀」の説話には鵠(白鳥の古名)や鷺などの水鳥を霊力を持つ動物として見ていたことを物語る例が多く見られます。鷺栖神社は、鳥形山の南辺を本拠地としていた中臣氏が、その辺りに群生していた鷺を守護神として祀ったのが始まりと考えられています。
境内の様子
四分町を貫いて流れる飛鳥川の右岸側に川に面して鎮座しています。
社号標には「郷社 鷺洲神社」と表記されています。「郷社」とは明治4年(1871年)定められた「旧社格制度」による社格の一つで、府県社に次ぐ郷邑の産土神で幅広く崇敬された中心的役割を持った神社でした。「旧社格制度」は昭和21年(1946年)に廃止されています。
飛鳥川の堤防上に入口があり、石段を下って参拝します。
鷺栖神社の前を流れる飛鳥川です。
石段を下りて進むと正面に一の鳥居が西向きに建ち、砂利敷の広い参道が社殿までまっすぐに伸びています。
一の鳥居
参道の途中の左側に柿本人麻呂の万葉歌碑が建っています。
柿本人麻呂が高市皇子の死を悼んで詠んだ挽歌です。
ひさかたの 天知らしぬる 君故に
日月も知らず 恋ひわたるかも
巻2-200 柿本人麻呂
この歌についてはこちらの記事で詳しくご紹介しています。
➡【橿原の万葉歌碑めぐり】高市皇子の死を悼む柿本人麻呂の挽歌(鷺栖神社)
更に進むと左側に手水舎が建っています。
二の鳥居と拝殿
拝殿は桟瓦葺の平入入母屋造りで、妻入入母屋造の向拝の付いた割拝殿です。
割拝殿をくぐると正面奥の基壇上に中門と瑞垣が設けられ、奥に塀に囲まれて銅板葺の三間社流造の本殿が建っています。
右殿に「天児屋根命」を、中殿に「誉田別命」を、左殿に「天照皇太神」を祀っています。
拝殿と本殿の間に建っている建物は神饌所でしょうか。
美しく掃き清められた気持ちの良い空間が広がっています。
拝殿と本殿の間の右側にも鳥居が建つ入口がありました。
境内のあちらこちらに紫陽花が植えられていて、蕾をたくさん付けていました。紫陽花を鑑賞する穴場スポットではないでしょうか。
鷺栖神社へのアクセス
奈良県橿原市四分町305-2
駐車場はありません。
畝傍御陵前駅より 徒歩16分
橿原市藤原京資料室前の駐車場より 徒歩17分
最後までお読み頂きありがとうございます。