マップを見ながら古代の史跡をめぐるのが好きなみくるです。
今回は橿原市観光協会さんの観光パンフレット「橿原まちあるきまっぷ~石川池周辺を歩く」に掲載されている「孝元天皇 剣池嶋上陵」をご紹介します。
➡橿原市の史跡を巡る【石川池周辺を歩く】橿原神宮前駅~石川池(孝元天皇陵)
半島のような「孝元天皇 剣池嶋上陵」
「孝元天皇 剣池嶋上陵」は「石川池(剣池)」に半島のように突き出ている古墳で、宮内庁により「劔池嶋上陵」に治定されています。詳細は不明ですが、宮内省のサイトでは「前方後円墳」となっています。
周濠を巡らしたように見えますが、ぐるりと囲まれてはいません。
石川池をご紹介した記事にも書きましたが、『日本書紀』の応神天皇11年(280年)の条に、「剣池・軽池・鹿垣池・厩坂池を作る」とあり、石川池は応神天皇の時代に灌漑用のため池として造られたと考えられています。
➡橿原市の史跡を巡る【石川池(剣池)】で古代からの美しい景観を楽しむ~石川池周辺を歩くその5-1
孝元天皇は第8代の天皇ですので、第15代の応神天皇の時代に造られた池とするならば、修築か拡張であろうとする説があり、石川池の説明板にもそのように書かれていました。
孝元天皇は「欠史八代」の一人に数えられる天皇で、その実在性は疑問視されていますが、個人的には『日本書紀』の記述通り実在されていると考えています。
『日本書紀』の開化天皇の条に、「即位5年春2月6日。大日本根子彦国牽天皇(=孝元天皇)を劒池嶋上陵(ツルギノイケノシマノウエノミササギ)に葬りました。」とあり、宮内庁の治定と一致します。
天皇陵の名にふさわしい立派な古墳です。
第8代孝元天皇は第7代孝霊天皇の皇子で、のちに神功皇后に仕えた武内宿禰の曽祖父です。異母兄弟に大物主神(三輪山の神)との神婚譚や箸墓古墳伝承で知られる倭迹迹日百襲姫命がおられます。
拝所は石段の上にあります。
天皇陵には独特の雰囲気があり、厳かな気持ちになります。
初代神武天皇は天孫降臨した瓊瓊杵尊の曽孫で、日向から大和に東征し、橿原宮にて即位され、畝傍山東北陵(橿原市大久保町)に葬られました。
第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇は、『日本書紀』『古事記』の記述が簡潔で事跡が明らかになっていないことなどから、実在性が疑問視され「欠史八代」と称されています。
欠史八代の天皇と陵墓(所在地)
- 第2代綏靖天皇 桃花鳥田丘上陵(橿原市四条町)
- 第3代安寧天皇 畝傍山西南御陰井上陵(橿原市上田町)
- 第4代懿徳天皇 畝傍山南繊沙渓上陵(橿原市西池尻町)
- 第5代孝昭天皇 掖上博多山上陵(御所市三室)
- 第6代孝安天皇 玉手丘上陵(御所市玉手)
- 第7代孝霊天皇 片丘馬坂陵(北葛城郡王寺町)
- 第8代孝元天皇 劔池嶋上陵(橿原市石川町)
- 第9代開化天皇 春日率川坂上陵(奈良市油阪町)
ですが、こうして立派な陵墓を拝見すると、ここに葬られたのだと信じたくなります。
美しく掃き清められていました。
孝元天皇「軽境原宮跡」伝承地
孝元天皇の宮の名称は、『日本書紀』では軽境原宮、『古事記』では軽之堺原宮と記述されており、現在の奈良県橿原市大軽町・見瀬町周辺と伝承されています。
見瀬町では、「牟佐坐神社境内」が宮跡にあたるとして参道に「軽境原宮阯」碑が建てられています。
宮跡とされる「牟佐坐神社」はこちらの記事でご紹介しています。
➡万葉歌碑巡り【柿本人麻呂の泣血哀慟歌】牟佐坐神社(橿原市見瀬町)
近年では欠史八代の全てを虚構とすることには否定的な見解もあり、興味が尽きません。陵墓や宮跡も順次ご紹介したいと考えています。
孝元天皇 剣池嶋上陵へのアクセス
奈良県橿原市石川町
駐車場はありません。
近鉄橿原神宮前駅から徒歩15分ほどです。
こちらの記事で石川池周辺の史跡をまとめてご紹介しています。
最後までお読み頂きありがとうございます。