古墳を見て歩いて、埋葬された人が生きた時代に想いを馳せるのが好きなみくるです。
今回は、奈良県天理市和爾町にある「和爾小倉谷古墳群」をご紹介します。白川ダム建設に伴う発掘調査で見つかった古墳群を、移築復元したもので「古墳公園」として整備されています。
白川ダムについては、こちらの記事でご紹介しています。
和邇小倉谷古墳群のある古墳公園は、白川ダムのすぐ北西に位置します。すぐ隣にある「万葉の森」もあわせてご紹介します。
和邇小倉谷古墳群
概要
白川ダム建設に伴い奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査を行い、3基の横穴式石室が見つかりました。現在それらの古墳は、元の位置から北西へ約120mの、古墳公園に移築保存されています。

ちょっとした公園になっていて、東屋が設けられています。紅葉なども美しく、静かなので、山の辺の道歩きの休憩スポットにもピッタリです。

東屋の向こうに3基の古墳が移築復元されています。

和爾小倉谷古墳群
現在位置の南には、かつて7基ほどの古墳がありました。古墳時代後期に周辺に住んでいた豪族によりつくられた古墳とみられます。天理市和爾町にあり、地名から「和邇小倉谷古墳群」と命名されました。
1991年には白川ダム建設にともなう奈良県立橿原考古学研究所の発掘調査があり、3基の古墳から横穴式石室がみつかりました。1号墳は6世紀前半の円墳で丘陵上につくられています。2・3号墳は7世紀に丘陵の南斜面につくられた方墳です。なかでも2号墳は大きな石をつかって横穴式石室を組み立てています。
古墳のかたちや立地、石室の石材の大きさや組み方に時代によるうつりかわりをみることができます。周辺のおもな遺跡には、平安時代の白川火葬墓群(消滅)、奈良時代の銀製墓誌を出土した僧道薬墓、岩屋大塚古墳(前方後円墳、墳丘全長約76m)、ハミ塚古墳(方墳、一辺約50m)、二十数基の円墳がある十三塚古墳群があります。
※ここにある横穴式石室は、もとの地点から北西へ約120mの現在位置に移築復元したものです。
和邇小谷古墳群の説明板
和爾小倉谷古墳群の航空写真と、白川ダム周辺の主な遺跡を示した地図も一緒に掲示してありました。

「消滅」とある平安時代の白川火葬墓群は、白川ダムの中央付近にあったんですね。
ハミ塚古墳は、天理市北部エリア最大の大型方墳です。白川ダムからアクセスしやすい場所にあったので、見に行って来ました。
和爾小倉谷1号墳
1号墳は写真を撮り忘れてしまいました。東屋のすぐ隣にある古墳です。石室は埋められているのか、ただ土盛りがあるのみでした。

和爾小倉谷1号墳
6世紀前半に造られた径16mの円墳です。南に開口部を持つ片袖式の横穴式石室で、全長は3.3m+α。羨道部に雨水を外へ排出する排水溝も見つかっています。石室は既に天井石も無く破壊されていましたが、石室床から須恵器の杯、鉄刀、鉄鏃が出土。築造時期は2・3号墳より早く6世紀前半と考えられています。
和爾小倉谷2号墳
2号墳は、和邇小倉谷古墳群の中では最大の方墳です。

大きな石をつかって横穴式石室を組み立てている様子を間近で見ることができます。



和邇小倉谷2号墳
一辺約14mの方墳で石室は全長8.5m、玄室長3.7m、幅1.7mと小倉谷古墳群では最大規模で、花崗岩を切石状にうまく加工しています。出土品は須恵器のみ。築造は7世紀前半と考えられています。
丘陵の南斜面をつかって2基の古墳がつくられています。
和爾小倉谷3号墳
3号墳は、2号墳と同じ丘陵の斜面を使って作られた方墳です。



和爾小倉谷3号墳
一辺7mの方墳で2号墳の丁度半分の規模。羨道部は既に失われていますが全長は約5.8m。発掘時に玄室部の床が二重になっていた事が判明しており、下面が石敷き、上面が砂利敷きで、追葬時に砂利が敷かれたようです。築造は7世紀中頃、追葬は7世紀末か8世紀初めと考えられています。
万葉の森
白川ダム案内板によると、古墳公園の南側は「万葉の森」というようです。

『万葉集』が好きなので、万葉歌碑が建てられていたり、万葉植物が植えられていたりするのかと、期待していましたが、それらしいものは見当たりませんでした。

万葉を感じるものはありませんでしが、美しく手入れされた気持ちの良い公園でした。

白川ダムの堤から、階段で降りられるようになっています。


大きな滑り台も設置されていました。

滑り台を降りた先からは、古墳公園の東屋が見えました。

紅葉も綺麗でした。人気が無くひっそりとしていて、私はこの公園がとても気に入りました。

天理市和爾町の古墳公園へのアクセス
奈良県天理市和爾町
最後までお読み頂きありがとうございます。