古代史と記紀の世界に夢中なみくるです。
以前の記事でご紹介した「吉備池廃寺跡」は、舒明天皇が建立した「百済大寺」の跡地とされています。律令国家の礎となる大寺院が築かれたその場所から、やがて奈良盆地の南部へと受け継がれていったのが「大官大寺(だいかんだいじ)」です。
その跡地である「大官大寺跡」は、奈良県橿原市と明日香村にまたがる場所にあります。大官大寺は、藤原京時代に建立された官寺の中でも最高位に位置づけられた寺院で、その規模は当時最大級でした。
現在、現地には往時の面影を伝えるものは少なく、広大な水田の中に石碑が建っているだけですが、秋のお彼岸の頃には、道中に咲き誇る彼岸花が彩りを添え、往時の壮大な伽藍を想像しながら散策するのにぴったりの場所です。

現地には駐車場がないため、車でのアクセスはできません。徒歩で歴史と自然を同時に楽しむ散策として訪れるのがおすすめです。
この記事では、史跡としての大官大寺跡の魅力に加えて、『日本書紀』『続日本紀』『扶桑略記』に残された記録をたどり、その歴史的な位置づけにも触れていきたいと思います。
吉備池廃寺跡を訪れた方も、まだの方も、記事を通じて百済大寺から大官大寺へと続く古代史スポットの旅を感じていただければ嬉しいです。
「大官大寺跡」のどかな田園風景に残る壮大な歴史の痕跡
吉備池廃寺跡(百済大寺跡)の要点まとめ
「大官大寺(だいかんだいじ)」の歴史を語る上で欠かせないのが、その前身とされる「百済大寺(くだらのおおでら)」です。舒明天皇11年(639年)に建立が始まったと伝えられ、国家の威信をかけて築かれた大伽藍でした。その跡地が、奈良県桜井市に残る「吉備池廃寺跡」です。
吉備池廃寺跡は、吉備池に隣接する地に広がる史跡で、舒明天皇11年(639年)に建立された百済大寺の跡地とされています。
発掘調査では、南大門・中門・塔・金堂・講堂など、壮大な伽藍配置が確認され、飛鳥時代の国家的寺院の姿を今に伝えています。『日本書紀』にもその建立が記され、古代国家の仏教政策を象徴する存在でした。
百済大寺については、こちらの記事で詳しくご紹介しています。
吉備池廃寺跡と大官大寺の関係
「百済大寺」の跡地とされる吉備池廃寺跡と、大官大寺跡の関係を考えると、古代国家寺院の流れが見えてきます。吉備池廃寺は舒明・皇極天皇期の官寺として整備され、発掘では塔や金堂、講堂などの遺構が確認されています。その規模や構造から、当時の国家寺院としての威容や百済大寺の特色がうかがえます。
「大官大寺」は、この百済大寺の法灯を受け継ぎ、藤原京造営にあわせて整備された国家寺院です。基壇や礎石に残る伽藍配置を見ると、南大門・中門・塔・金堂・講堂といった主要施設が確認され、官寺としての基本的な形を維持しつつ、時代の変化に応じた拡張や改修が行われていたことがわかります。

一方で、天武天皇の時代に「高市大寺」と呼ばれた寺院があったことは文献で示唆されていますが、その正確な位置は現在も確定していません。橿原市南浦町・石川町周辺や明日香村小山地区など、複数の候補地が考えられていますが、発掘や遺構の確認はされていないため、学術的には断定できないのが現状です。ただし、百済大寺の法灯が大官大寺に引き継がれた可能性は高いとされています。
吉備池廃寺跡から大官大寺跡を巡ることで、飛鳥時代から藤原京への移行期における国家寺院の整備や、天武・文武天皇期の政治・宗教の関わりを、より立体的に感じることができます。歴史の流れを歩きながら体感する散策として、とても魅力的な古代史スポットです
里中満智子さんの漫画『天上の虹』では、天武天皇の政策や功績が描かれており、飛鳥から藤原京への都移転や寺院再編の重要性を感じることができます。史料や発掘成果とあわせて、大官大寺跡を訪れると、まるで物語の世界を現実の風景の中で体感するような気持ちになります。
大官大寺跡とは
大官大寺跡(だいかんだいじあと)は、百済大寺を前身とする国家寺院の跡地です。大官大寺は、飛鳥から藤原京への都移転や寺院再編にともなって整備されました。寺域は、現在の奈良県橿原市南浦町と明日香村小山にまたがり、南北約300メートル、東西約200メートルの広さを持っています。
現在の奈良市にある大安寺(だいあんじ)の前身にあたり、日本の首都が藤原京にあった時代、国家を代表する寺院として最高峰に位置づけられていました。

吉備池廃寺跡(百済大寺跡)と比べると、藤原京の造営にあわせて本格的な官寺として整備されており、国家仏教の中心寺院としての役割を果たしていたことがうかがえます。

文献によると、大官大寺には九重の塔がそびえ立ち、その規模は藤原宮の大極殿に匹敵するほど壮大だったといいます。

※ここでご紹介している写真は、「バーチャル飛鳥京アプリ」のものです。

しかし、和銅4年(711年)の大火によって、藤原京の主要施設と共に焼失。その後、寺は平城京へと移転され、この地から忽然と姿を消しました。
現在は、往時の壮麗な姿を偲ばせる建物は残っておらず、広大な水田の中にわずかな土壇や石碑が残るのみです。しかし、発掘調査によって出土した焼け瓦や炭化した木材は、文献に残る大火の記述を裏付ける貴重な史料となっています。

のどかな田園風景の中にひっそりと佇む大官大寺跡は、古代日本の仏教文化の隆盛と、それに伴う歴史のダイナミックな変遷を静かに物語っています。
アプリで蘇る大官大寺の姿
「でも、石碑だけじゃ当時の様子が想像できない…」そう思う方もいるかもしれません。
そんな方におすすめなのが、明日香村が提供している無料アプリ「バーチャル飛鳥京」です。このアプリをスマホにダウンロードして現地でかざすと、AR(拡張現実)の技術を使って、目の前に九重の塔や金堂がCGで再現されます。

発掘調査で判明したデータをもとに再現された伽藍は、まるでタイムスリップしたかのような体験をさせてくれます。のどかな田園風景の中に、巨大な塔や伽藍が浮かび上がる様子は感動ものです。

ぜひ、このアプリを活用して、大官大寺の壮大な姿を体感してみてください。
※データ量が大きいのか、ダウンロードに時間がかかりました。事前にインストールしてから、現地に行かれることをお勧めします。
史料に見る大官大寺
大官大寺は、古代の史書にも登場します。
『日本書紀』の記述
- 舒明天皇11年(639年)の条に、「大宮と大寺を造る。百済川のほとりを以て宮処となす。西の民は宮を造り、東の民は寺を造る」とあります。この「大寺」が後の百済大寺とされ、大官大寺の起源とされています。
- 同年の条には、「百済川のほとりに九重の塔を建つ」という記録も残されています。
- 天武天皇2年(673年)には、「造高市大寺司」が任命されたという記述があり、この時期に高市大寺の建立が始まったことがわかります。
『続日本紀』の記述
- 文武天皇3年(699年)に、大官大寺に九重塔が建てられたという記述があります。これは藤原京に建立された大官大寺に関する記述です。
『大安寺資財帳』の記述
- 『大安寺資財帳』には、百済大寺から高市大寺、そして大官大寺へと名称と場所が変遷した経緯が詳細に記されています。
- 舒明天皇が百済川のほとりの「子部(こべ)社」を切り開いて九重塔を建て、百済大寺と号したこと。
- 神の怒りを買って焼失した後、天武天皇が高市郡夜部村に寺を遷して高市大官寺と号したこと。
- さらに文武天皇が、九重塔と金堂を建立し、丈六の仏像を造立するなど、大々的に伽藍を整備したことが記されています。
このように、大官大寺の建立は、単一の出来事ではなく、何代もの天皇によって場所や名称を変えながら進められた、長期間にわたる国家的事業であったことがわかります。
火災に関する記述
- 『扶桑略記』和銅4年(711年)の条には、大官大寺の焼失について以下のように記されています。
「大官大寺の塔・金堂を焼く」
この記述は簡潔ですが、この年、藤原京にあった大官大寺が火災に見舞われたことを明確に示しています。
- 『続日本紀』の記述
『続日本紀』(しょくにほんぎ)にも、和銅4年の出来事として火災の記述が見られますが、大官大寺と特定して焼失を記しているわけではありません。
しかし、同じく和銅4年の条に「藤原京の大極殿・朝堂院が火災で焼失した」という記述があります。大官大寺は藤原宮に隣接して建てられていたため、藤原宮の火災が大官大寺にも延焼した、あるいは同時多発的に発生したと考えられています。
- 『大安寺資財帳』の記述
大官大寺が平城京へ移転して大安寺となった際に作成された『大安寺資財帳』という記録にも、火災に関する記述があります。
「舒明天皇11年(639年)に、百済大寺(大官大寺の前身)の九重塔と金堂の鴟尾(しび)が火災で焼失した」
これは、藤原京での火災とは別の、百済大寺時代の火災に関する記述ですが、この寺院が何度も火災に見舞われたことを示唆しています。
考古学的・発掘的な裏づけ
大官大寺跡の発掘では、巨大な基壇の礎石、焼け跡を残す瓦や土層が確認されています。これは『続日本紀』や『大安寺資財帳』に記された火災記事と一致し、文献史料と考古学が結びつく貴重な例となっています。
また、出土した瓦の文様は吉備池廃寺のものと共通点があり、百済大寺からの技術的・文化的継承を示しています。こうした点からも、大官大寺が吉備池廃寺跡の延長線上に位置することが実感できます。
彼岸花と散策の視点
大官大寺跡の周囲は静かな田園が広がり、徒歩で散策すると、季節ごとの自然を感じながら史跡を楽しむことができます。

秋には、赤く揺れる 彼岸花 が彩りを添え、田園風景の向こうに古代の伽藍を想像しながら歩くのがとても心地よいです。


なお、明日香村の彼岸花スポットもこの時期おすすめです。大官大寺跡を訪れた後に足を延ばせば、さらに鮮やかな秋の風景を楽しめます。
明日香村の彼岸花スポットは、こちらの記事でご紹介しています。
また、同じ橿原・明日香エリアの秋の名所として、甘樫丘のコキア も見どころです。赤く色づいたコキアと古代の風景が、訪れる人の目を楽しませてくれます。
徒歩で巡る散策コースと合わせると、歴史と季節の花々を同時に楽しめる充実の秋の旅になります。
吉備池 vs 大官大寺 — 比較と物語性
百済大寺の跡地とされる吉備池廃寺跡と、大官大寺跡を比べてみると、単なる遺構の違いだけでなく、古代の国家仏教や政治の流れを感じることができます。
吉備池廃寺は、舒明・皇極天皇期の官寺として整備され、発掘では塔や金堂、講堂などの遺構が確認されています。その規模や構造から、当時の国家寺院としての威容や百済大寺の特色がうかがえます。
一方、大官大寺は、百済大寺の法灯を受け継ぎ、藤原京造営にあわせて整備された国家寺院です。基壇や礎石に残る伽藍配置を見てみると、南大門・中門・塔・金堂・講堂といった主要施設が確認され、吉備池廃寺と同じく官寺としての基本的な形を維持しつつ、時代の変化に応じた拡張や改修も行われていたことがわかります。
両遺跡を訪れる順番で考えると、歴史の物語がより立体的に浮かび上がります。吉備池廃寺跡で飛鳥時代の官寺の始まりを感じ、大官大寺跡で藤原京期の国家寺院の姿を追体験することで、古代史スポット巡りが単なる史跡めぐりではなく、時代をつなぐ物語を歩く旅になります。
歩きながら遺跡の土壇や発掘成果を眺め、百済大寺から大官大寺へと続く歴史の流れを想像する――そんな体験こそ、古代史ファンにとっての醍醐味です。
古代の国家寺院・大官大寺跡に残されたものから考える
「大官大寺」は、吉備池廃寺跡に比定される「百済大寺」の伝統を受け継ぎ、天武天皇の時代には「高市大寺」と呼ばれた寺院と関わりがあったと考えられています。その後、藤原京の中核寺院として「大官大寺」として整備され、国家を代表する大寺のひとつとなりました。現在は基壇や礎石が残るのみですが、発掘調査によって南大門・中門・塔・金堂・講堂といった伽藍配置が確認され、飛鳥から藤原京へと移り変わる時代の寺院の姿を今に伝えています。
また、『日本書紀』や『続日本紀』の記述、文武天皇の時代に本格的に建立された経緯などからもわかるように、大官大寺は単なる仏教施設ではなく、政治や国家体制と深く結びついた存在でした。権力の象徴として重要な役割を担いながらも、やがて平城京遷都に伴って衰退し、今では静かな田園の中に礎石だけがひっそりと残っています。
のどかに広がる田園風景を眺めながら古代を想像してみたり、里中満智子さんの歴史漫画『天上の虹』を手に取り、天武・持統天皇の時代に思いを馳せてみるのもおすすめです。大官大寺跡は、かつての都と国家の理想を映し出し、今の私たちに歴史を考えるきっかけを与えてくれる場所です。あなたは、この静かな遺跡からどんな物語を感じるでしょうか。
徒歩で巡る大官大寺跡の散策(アクセス情報)
近鉄橿原神宮前駅や近鉄畝傍御陵前駅から、大官大寺跡までは徒歩で30〜40分ほどの道のりです。少し距離はありますが、その分、田園風景や季節の花々を眺めながら歩けるのが魅力です。特に秋には彼岸花が彩りを添え、古代の都の跡地に静かで趣のある雰囲気を作り出しています。
駅を出て東へ向かう道は平坦で歩きやすく、途中には小さな集落や水田が広がります。舗装された道と自然の中の小道が交互に現れ、歩くたびに歴史の時間をさかのぼる感覚が味わえます。

大官大寺跡の石碑が見えてくると、古代の官寺の規模や伽藍の配置を想像しながら散策を楽しむことができます。

徒歩が大変な場合は、橿原神宮前駅から奈良交通のバスに乗り、「明日香小山」バス停で下車、そこから徒歩約6分で到着する方法もあります。ただし、現地には駐車場がないため、車でのアクセスはできません。
辺の季節の風景も楽しめます。彼岸花は明日香村でも見頃を迎えており、散策の前後に訪れるとより秋らしい雰囲気を味わえます。秋の彩りを楽しむなら、藤原宮跡のコスモスもおすすめです。詳しくは関連記事「藤原宮跡のコスモスの見頃と散策ポイント」をご覧ください。
さらに、大官大寺跡の歴史的背景をより深く感じたい方には、吉備池廃寺跡(百済大寺跡)もあわせて訪れるのがおすすめです。詳しくは「吉備池廃寺跡の記事」でご紹介していますので、あわせてチェックしてみてください。
徒歩で歴史の道をたどりながら、古代の都の空気や季節の自然を同時に感じられるのが、大官大寺跡の散策の魅力です。
最後までお読み頂きありがとうございます。