飛鳥京の中心地【飛鳥宮跡】で飛鳥時代に想いを馳せる「後の大極殿」【エビノコ郭】も

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明日香村が大好きで度々出かけているみくるです。何度行っても新しい発見があったり、懐かしい気持ちになったりと、飽きることがありません。

今回は、彼岸花の咲く明日香を散策した際に立ち寄った奈良県高市郡明日香村岡の「飛鳥宮跡あすかきゅうせき」をご紹介します。

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飛鳥京の中心地「飛鳥宮」

飛鳥京跡とは

飛鳥京跡あすかきょうあと」は奈良県高市郡明日香村一帯にあった、天皇の宮とその関連施設の遺跡群の総称です。

推古天皇が豊浦宮で即位(592年)し、持統天皇が藤原宮へ遷都(694年)するまでの約100年、明日香の地域に各天皇が宮殿を置きました。
一般的には、南は岡、北は飛鳥までの飛鳥川右岸の地域を飛鳥京跡と総称しています。

「甘樫丘」の展望台に楽しくて分かりやすい「飛鳥京絵図」がありました。今回ご紹介する「飛鳥宮跡」も載っています。

飛鳥京絵図

飛鳥宮跡とは

飛鳥宮跡あすかきゅうせきは、飛鳥川右岸に営まれた舒明天皇の「飛鳥岡本宮あすかおかもとのみや」、皇極天皇の「飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみや」、斉明天皇の「後飛鳥岡本宮のちのあすかおかもとのみや」、天武・持統天皇の「飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみや」など宮号に「飛鳥」を冠するものの総称です。

飛鳥京跡

1959年からの発掘調査により、多くの掘立柱建物、掘立柱塀、石組溝、石敷遺構などが検出されました。

この地域は元々「飛鳥板蓋宮」と伝承されていました。当時の宮が茅葺、桧皮葺であったのに対して、板蓋であったため、この名がついたと思われます。

飛鳥板蓋宮は、「大化の改新」の幕開けとなる蘇我臣入鹿の中大兄皇子等による暗殺の舞台となりました。

昭和47年4月10日に「国史跡」に指定された時には、板蓋宮という確証がなかったため、「伝飛鳥板蓋宮跡でんあすかいたぶきのみやあと」とされました。

2020年6月に行った時は「伝飛鳥板蓋宮跡」の名称で解説板が建っていました。

「伝飛鳥板蓋宮跡」の解説板

しかし、近年になり発掘調査が進み、その殆ど同じ場所に時期の異なる宮が重層的に営まれていたことが判明し、平成28年(2016年)に「飛鳥宮跡」に改められました。

新しい案内版が設置されていました。最近になって取り換えられたようです。

飛鳥京跡の解説板

飛鳥宮跡の変遷

飛鳥宮跡では、3時期の宮殿が重なって造られていました。

飛鳥宮跡の変遷

営まれていたことが判明したのは次の4つの宮です。

  • Ⅰ期遺構 舒明天皇の「飛鳥岡本宮あすかおかもとのみや
     (舒明天皇は推古天皇の後に即位した第34代天皇です)
  • Ⅱ期遺構 皇極天皇の「飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみや
     (皇極天皇は舒明天皇の皇后で、第35代天皇です)
  • Ⅲ期遺構(前半) 斉明天皇の「後飛鳥岡本宮のちのあすかおかもとのみや
     (斉明天皇は第36代孝徳天皇の崩御後に、皇極天皇が重祚した第37代天皇です)
  • Ⅲ期遺構(後半) 天武天皇・持統天皇の「飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみや 
     (天武天皇は壬申の乱の後に即位した第40代天皇です)

Ⅲ期遺構は「斉明期」に造られ、改築されながら「天武・持統期」にも引き継がれています。

現在復元されている石敷広場や大井戸跡は上層の「飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみや」のものです。Ⅰ期・Ⅱ期遺構は、Ⅲ期遺構を保護しながら調査されるため、その構造はまだよく分かっていません。

飛鳥宮跡2
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飛鳥宮跡の内郭北東部

飛鳥宮跡の内郭北東部の解説板

ここに復元されているのは最後に造られたⅢ期遺構(斉明・天武・持統の宮)で、王宮の中枢部である内郭の北東隅にあたります。大型の井戸と、その南側と西側で掘立柱建物が見つかっており、地面は石敷きで舗装されていました。復元整備では、石敷き舗装と、内郭を囲む掘立柱塀および建物2棟の柱位置を円柱で表示しています。

飛鳥宮跡の内郭北東部の解説板

↓復元整備された石敷き舗装と、柱位置を表す円柱

復元整備された石敷き舗装と、柱位置を表す円柱

↓大井戸跡
この辺りが「飛鳥浄御原宮」の北東の角であったとされています。

大井戸跡
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エビノコ郭

飛鳥宮跡から南へ向かい、続いて「エビノコ郭えびのこかく」に行きました。

「エビノコ郭」には天武天皇の時代に建てられたとされる大型の建物が建っていました。「エビノコ」というのは、この辺りの小字名です。その小字名を取って「エビノコ郭」と呼ばれています。

エビノコ郭に行く途中に「飛鳥宮跡」の解説板がありました。現在地と表記されている場所は「飛鳥浄御原宮」の内郭南東部に当たります。

飛鳥宮跡の解説板2

エビノコ郭の復元図も表記されいて、位置関係が分かります。

写真を撮らなかったのですが、地図に「エビノコ郭」と表記されている場所の南側にある駐車場の区画がそのままエビノコ郭だったそうです。

エビノコ郭は四面に庇の付いたかなり大規模な建物だったとされています。公的な行事を行うために、天皇が暮らす私的な空間から切り離して造られたもので、それが後の藤原京や平城京に見られるような「大極殿」へと繋がっていったものと考えられています。

エビノコ郭の解説板

エビノコ郭は天武天皇の飛鳥浄御原宮の一角にあり、内郭の東側に位置している。エビノコ郭には桁行9間(約16.2m)、梁行5間(約9m)の大型の掘立柱建物があり、建物の四面には庇を有している。(中略)エビノコ郭は天皇が政務や儀式を行った「大極殿」に相当する宮殿施設であったと推定されている。

飛鳥宮跡 エビノコ郭の解説板

↓解説板は駐車場の南側にある「岡地区児童公園」内にあります。
地図の表記とは違い、分かりにくいのでご注意下さい。

岡地区児童公園の入口

↓解説板の左手に見える駐車場の区画に大型建物が建っていました。

岡地区児童公園

飛鳥京跡からエビノコ郭へ向かう道です。実際に歩いてみると、その大きさが体感できました。

エビノコ郭への道
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志貴皇子の万葉歌碑

飛鳥宮跡に志貴皇子の万葉歌碑が建っています。

志貴皇子の万葉歌碑

(原文)
婇女乃 袖吹反  明日香風
京都乎遠見 無用尓布久

万葉集巻1-51 志貴皇子
平山郁夫揮毫

(読み下し)
采女の 袖吹きかへす 明日香風
都を遠み いたづらに吹く

飛鳥から藤原京に遷都した後に、古京「飛鳥」への懐旧を詠んだ歌です。

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飛鳥宮跡へのアクセス

奈良県高市郡明日香村岡

近鉄橿原神宮前駅又は飛鳥駅より
明日香周遊バス「岡天理教前」下車徒歩約5分

駐車場はありません。国営飛鳥歴史公園内の駐車場を利用されることをおすすめすします。
「甘樫丘地区川原駐車場」から徒歩16分です。

おすすめの本

奈良万葉の旅百首 奈良まほろばソムリエの会 上野誠監修 2021/2/28

万葉集と奈良の旅の両方が楽しめる本です。万葉歌碑が建っている場所と交通手段も分かります。

監修の上野誠さんは、国文学の最前線で活躍する万葉学者で、奈良大学名誉教授です。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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