天孫降臨の神を祀る古社【登彌神社(とみじんじゃ)】神話のルーツを辿って(奈良県奈良市)

※当サイトではアフィリエイト広告を利用しています。

生まれも育ちも奈良県のみくるです。幼い頃より何となく参拝してきた県内に数多くある神社仏閣について、きちんと知りたいと思っています。

今回は、奈良市西部、静かな丘の中腹にひっそりと佇む登彌神社(とみじんじゃ)についてご紹介します。この神社に足を踏み入れると、現代の町並みのすぐそばに、遥か古代の神話が今も息づいていることに気づかされます。

奈良県奈良市の古社「登彌神社(とみじんじゃ)」
スポンサーリンク

天孫降臨の地に佇む古社「登彌神社」と「登美」伝承をたどる

登彌神社の概要

登彌神社(とみじんじゃ)は、奈良県奈良市石木町に鎮座する式内社です。

登彌神社の一の鳥居

ご由緒は不明ですが、伝承では、神武天皇の時代に祭祀が始まったとも、天孫・饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀るために創建されたとも言われています。

現在の社殿は江戸時代に建立されたもので、拝殿や本殿など5棟が登録有形文化財に指定されています。

毎年2月1日には、奈良市の無形民俗文化財にも指定されている「粥占い(かゆうらない)」が行われ、一年の農作物の出来を占う粥占いの神事が受け継がれています。

登彌神社のご祭神

高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
誉田別命(ほんだわけのみこと)
神皇産霊神(かみむすびのかみ)
饒速日命(にぎはやひのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)

登彌神社の御祭神

この他、境内摂社があり、併せて十七柱の神々が五社殿に合祀されています。

一の鳥居横に建つ石碑です。

登彌神社の一の鳥居横に建つ石碑

天皇陛下御即位五十年を記念して、昭和五十年乙卯十月八日に建立されました。

皇紀四年、春二月二十三日、神武天皇が、この地に於いて、皇祖天神を祭祀されたのが、そもそもの淵源であり、その後、登美連が、祖先である天孫饒速日命の住居地-白庭山であった、この地に、命ご夫妻を奉祀したのが、当神社のご創建であります。

スポンサーリンク

地元の人に親しまれてきた「木嶋明神さん」

案内板にもあるように、登彌神社は、地元では「木嶋明神(このしまみょうじん)」とも呼ばれています。

登彌神社の案内板

登彌神社祭神 饒速日命(にぎはやひのみこと)

通称木嶋明神といい、延喜式内小社で物部氏の祖神饒速日命を祭神とし、神域幽玄神殿もきわめて壮大であり太古大部族の祖神を祀るにふさわしいたたずまいである。

又、付近丘陵(大和郡山市城町主水山)は弥生時代遺物の散布地帯である。

登彌神社の案内板

現在の住所は「奈良市石木町」ですが、登彌神社が鎮座する丘のあたりは古くから「木嶋(このしま)」という小字(こあざ)で呼ばれていたとされています。

木嶋には、「木の島」のように、森に囲まれた独立した小高い丘=“神が宿る場所”というイメージがあります。

登彌神社の参道

灯籠の竿に「木嶋大明神」と刻まれていることからも、神々が宿る木の島のような尊いお社として親しまれていることが伺い知れます。

登彌神社の石灯籠に見られる「木嶋大明神」の文字

木々に囲まれた社殿は、まさに神々が宿る“木の島”のようです。

スポンサーリンク

「富雄」の地名に秘められた歴史

富雄という地名と富雄川

現在、奈良市には「富雄(とみお)」という地名がありますが、これはまさに、この「登美(とみ)」という古代の呼称に由来しています。

「登彌神社」が鎮座する一帯は、かつて「登美郷(とみのさと)」「鳥見郷(とりみのさと)」と呼ばれていた古代地名にあたるとされます。
また、近くを流れる富雄川(とみおがわ)や、住宅地として知られる登美ヶ丘(とみがおか)といった地名にも、「とみ」の名残が色濃く残っています。

これらはすべて、古代の豪族登美氏(とみうじ)、あるいはその祖とされる饒速日命の伝承に基づくものと考えられています。

登彌神社は、この「登美」のルーツを今に伝える貴重な存在と言えるでしょう。

『日本書紀』と登美の地

『日本書紀』や『先代旧事本紀』によれば、饒速日命(にぎはやひのみこと)は天磐船(あまのいわふね)に乗って天から地上へと降り、「登美」の地に住まったとされます。

その子孫が登美氏を名乗り、のちに登場するのが、神武天皇と戦った長髄彦(ながすねひこ)です。
長髄彦の本拠地が「登美邑(とみのむら)」とされており、その場所がどこかを巡っては、奈良市説と桜井市説の二つが古くから並び立っています。

「トミ」の地名については『日本書紀』神武天皇即位前紀において、イワレヒコ(後の神武天皇)が熊野から大和に入り長髄彦と再び戦った際に次のように記されています。

皇軍が長髄彦を撃つ際、なかなか勝ち取ることができなかった。その時たちまち天が曇って雨氷が降り、金色の鵄(トビ)が飛んできて弓の筈に留まった。その鵄は稲光のように光り輝き、長髄彦の軍はみな眩み、戦う力をなくしてしまった。長髄は邑の元々の名前で、それによって人の名としている。皇軍が鵄の瑞祥を得たことによって時の人は鵄(トビ)邑と名付けた。今鳥見(トミ)というのはこれが訛ったものである。

このように、イワレヒコ(神武天皇)が長髄彦に勝利するきっかけをもたらし即位と建国を導いた「金鵄」がトミの由来であるとしています。ただし『古事記』にこの逸話は無く、イワレヒコに熊野を案内した八咫烏が金鵄に対応しているとする説があります。

神武天皇と金色の鵄

こちらの記事では、私が住む奈良県橿原市と『古事記』『日本書紀』との係わりについてご紹介しています。

東征により大和を平定した神武天皇はヒメタタライスズヒメ(三輪山に座すオオモノヌシの娘)を妃とし、畝傍山の東南・橿原の地で宮を建て、初代天皇として即位したとされています。

スポンサーリンク

桜井市の等彌神社とのつながり

『日本書紀』には神武天皇の即位後、鳥見山(とみやま)の中に「霊畤(れいじ)」を立てて神々を祀ったことが記されています。霊畤とは祭祀の場といった意味です。

奈良県桜井市にも「等彌神社(とみじんじゃ)」という名の古社があります。
こちらも饒速日命や神武天皇にまつわる伝承地で、背後には鳥見山がそびえています。

つまり、「登美」「鳥見」伝承は奈良市と桜井市の双方に残っており、どちらが真の「登美の地」かは、今も決着がついていません。

しかし、逆に言えば、それだけ「登美」という名前が広い範囲で尊ばれてきた証でもあり、登彌神社と等彌神社は、いずれも日本神話の重要な舞台を担ってきた地なのです。

登彌神社の魅力

登彌神社の魅力は、神話の舞台としての重みもさることながら、その静かな佇まいと、丁寧に守り継がれている社殿群にあります。
春日造りの本殿、落ち着いた雰囲気の拝殿、そして古式ゆかしい手水舎。境内を歩けば、まるで古代へタイムスリップしたかのような感覚に包まれます。

特に神社のある丘陵地帯は、天孫が降り立った「高み」のイメージにふさわしく、神話と風景がぴたりと重なります。

スポンサーリンク

国の登録有形文化財!美しい社殿が織りなす境内の風景

登彌神社を訪れた際にぜひ注目していただきたいのが、その美しい境内と、国の登録有形文化財に指定された社殿群です。

鳥居と参道

富雄川沿いの小道を少し入ると、大きな一の鳥居が私たちを迎えてくれます。

登彌神社の一の鳥居

ここから先は、一気に空気が変わり、鬱蒼とした鎮守の森に包まれる別世界。

境内から振り返る登彌神社の一の鳥居

石灯籠が並ぶ緩やかな石段を上っていくと、まるで時が止まったかのような静寂に包まれます。

登彌神社の二の鳥居

この石灯籠には、かつて「木嶋大明神(このしまだいみょうじん)」という通称で親しまれていた名が刻まれているものもあり、古くからこの地で信仰されてきた証を見つけることができます。

登彌神社の参道の石段
スポンサーリンク

境内の様子

登録有形文化財に指定された建物たち

石段を上ると、落ち着いた佇まいの社殿が見えてきます。拝殿、神饌所、手水舎、社務所は、昭和14年(1939年)に村社から県社への昇格の際に現状のように整備されました。

登彌神社の境内の様子

江戸〜昭和初期にかけて建立された本殿・拝殿・神饌所・手水舎・社務所の5棟が、2020年に国の登録有形文化財に登録されました。

登録有形文化財」とは、日本の文化財保護制度の一つで、歴史的価値のある建物や構造物を、比較的柔軟に保存・活用しながら保護していくための仕組みです。

これは、「地域の歴史と文化を今に伝える建築群であり、保存しながら活用していく価値がある」と認められたということです。

手水舎

手水舎は、境内南西に南北棟で建ちます。切妻造本瓦葺、吹放し形式の長方形平面で、中ほどに手水鉢を据えます。

登彌神社の手水舎

角柱を内転びに立て、正面を内法貫、側背面を内法貫と腰貫で固めています。
※内転び(うちころび) 柱を内側に向かって傾けること。

昭和14年(1939年)に、旧表門を移転改築して建てられました。簡素ながら堅実なつくりで、境内景観の一画を形成しています。

登彌神社の手水舎の説明板

龍の口から出る手水は、センサーになっていました。

登彌神社の手水舎

国の登録有形文化財に指定されています。

スポンサーリンク

拝殿

拝殿は、本殿正面の石段下に建つ、旧神楽殿を改修したとされる建物です。

登彌神社の拝殿

質素ながらも整った意匠のこの建物は、寛政11年(1799年)に建立されたと伝わり、国の登録有形文化財に指定されています。

登彌神社の登録有形文化財の登録標

壁のない開放的な造りは、古代からの祭祀の場としての趣を今に伝えています。

登彌神社の拝殿

内部は板敷で化粧屋根裏とし、四周の切目縁に高欄が設けられています。

登彌神社の拝殿

毎年2月1日(元は旧暦1月15日)に行われる奈良市指定無形民俗文化財「粥占い(かゆうらない)」も、この拝殿で行われます。

粥占いの説明板

粥占い(かゆうらない)は、粥を用いて農作物の出来を占う古風な形態を残す農耕儀礼の行事です。奈良市指定文化財(無形民俗文化財)に指定されています。

神聖な空気が漂う中、古くから伝わる占いの儀式が今も大切に受け継がれているのですね。

スポンサーリンク

本殿

本殿は、棟札から文政7年(1824)の建立とわかります。境内の最も奥の一段高い位置に、同規模・同形式の一間社春日造2棟が並んで建ちます。

両殿の間は大樋をかけ、床を張って相の間(あいのま)を作る点が特徴的です。弁柄塗を基調とし、組物等に極彩色を施しており、色彩豊かに飾られています。

登彌神社の本殿

珍しいのは、本殿が二棟並列している点です。
東本殿(右側)には、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)と誉田別命(応神天皇)をお祀りします。

登彌神社の本殿

西本殿(左側)には、神皇産霊神(かみむすびのかみ)饒速日命(にぎはやひのみこと)天児屋根命(あめのこやねのみこと)をお祀りします。

登彌神社の本殿

これは、天神系と地祇系の神々を一堂に祀ることで、古代における神々の和合・統合を象徴しているとも解釈されます。

本殿の左側(西側)に二棟、右側(東側)に三棟の境内社が建っているそうですが、よく見えませんでした。

登彌神社の本殿の説明板

登録有形文化財に指定されています。

スポンサーリンク

神饌所

神饌所(しんせんじょ)は、本殿正面の西側にあり、神饌(供え物)を整える場として使用されます。

登彌神社の神饌所

滋賀県で古社寺修理に携わった西本光三郎の設計で新築されたものとみられ、保存状態も良く、小規模ながら全体に均整のとれた格調高いつくりです。

登彌神社の神饌所

外壁は漆喰塗で、側背面の腰を竪板張とし、内部北側の板間西面に神饌棚が設けられています。

登彌神社の神饌所の説明板

昭和14年(1939年)に県社昇格に際し新築されました。登録有形文化財に指定されています。

社務所

社務所は、境内の南東にあります。唐破風の玄関を構え、外観、内部とも、装飾を抑えながら全体に均整の取れた格調高い意匠の建物です。

登彌神社の社務所

神饌所と同じく、古社寺修理経験者である西本光三郎の設計とみられ、古社寺修理を通じて形成された正統的で端正な近代神社建築として価値があります。

登彌神社の社務所

登録有形文化財の中でも比較的新しい建物で、昭和14年(1939年)に県社昇格に際し新築されました。

登彌神社の社務所の説明板
スポンサーリンク

登彌神社へのアクセス

奈良県奈良市石木町648-1

登彌神社は富雄川沿いの丘の中腹に位置しています。

公共交通機関をご利用の場合

JR奈良駅・近鉄奈良駅からバスを利用する場合

「奈良県総合医療センター」行きバスに乗車し、終点の「奈良県総合医療センター」バス停で下車してください。徒歩7分ほどで社殿が見えてきます。

近鉄九条駅(橿原線)から徒歩

近鉄橿原線「九条駅」から、駅の西側へ約2km、徒歩で約20分です。

お車をご利用の場合

富雄川に沿って走る道に入り、石木町方面を目指してください。

登彌神社へのアクセス方法

神社の入り口は、富雄川沿いの道から少し入ったところにあります。

登彌神社へのアクセス方法

参拝者用の無料駐車場が用意されています。

登彌神社へのアクセス方法
登彌神社へのアクセス方法

境内前の石段横に駐車スペースがあります。

登彌神社の駐車場
登彌神社の駐車場

最後までお読み頂きありがとうございます。

スポンサーリンク
PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました