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住宅街に突如現れる巨大な門!【談山神社 大鳥居】から始まる5.5kmの祈りの道(奈良県桜井市)

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生まれも育ちも奈良県で、今は橿原市に住んでいるみくるです。

古道の空気感に惹かれて、最近はお隣の桜井市の方までよく足を延ばしているのですが、今回は住宅街の中で驚きの「発見」をしました。

桜井駅から聖徳太子ゆかりの「上宮寺跡(春日神社)」を目指して歩いていたときのこと。道端に「多武峰街道 聖林寺 談山神社」と記された案内板を見つけました。

談山神社(たんざんじんじゃ)」といえば、ここから山を登りきった先にあり、歩けば2時間以上はかかる場所。そんな遠い場所の名が記された道標に導かれるように進んでいくと、静かな住宅街の中に、突如として巨大な石造りの門が現れたのです。

それが、地元で「大鳥居」として親しまれている、談山神社の「一の鳥居」でした。

「どうしてこんな街の中に?」
「神社まではまだ数キロあるはずなのに……」

そんな疑問を抱きながら調べてみると、そこには江戸時代から続く深い信仰の歴史と、藤原氏の誇りが刻まれた物語が隠されていました。今回は、談山神社の聖域へと続くプロローグ、「談山神社 一の鳥居(大鳥居)」の魅力に迫ります。

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江戸から大正、そして現代へ。談山神社「一の鳥居」に刻まれた1300年の祈り

住宅街に現れる、圧倒的なスケールの「大鳥居」

桜井駅から談山神社へと続く街道を進むと、突如として視界を遮る巨大な石造りの門が現れます。

地図や現地の案内板では「大鳥居」と記されていますが、ここはかつて多武峰妙楽寺と呼ばれた時代の広大な神域への入り口、正式な「一の鳥居」です。

江戸時代中期の享保9年(1724年)に建立されたこの鳥居は、高さ約8.5mを誇る花崗岩製。300年もの間、街道を見守り続けてきた風格は、今も訪れる人々を圧倒します。

実は、江戸時代までのこの場所は「多武峰三千坊」と謳われるほど多くの僧坊が建ち並ぶ、巨大な宗教都市でもありました。

現地の説明板より引用させて頂きます。

談山神社 大鳥居

御破裂山(標高618.5m)の山腹に、南面して鎮座する談山神社の、北の入口に位置する大鳥居である。
大鳥居は石製で、高さ約8.5m、長さ約11.5mであるが、隣地の火災の際、西側の石材の端部が落ちてしまった。石材は花崗岩で、御破裂山の山腹から切り出されている。
談山神社の桜井側の入口として繁栄したことが、付近の街並みから想像できる。

一の鳥居から、談山神社の境内までの約5.5kmという長い距離は、当時の多武峰がいかに広大な勢力圏を持っていたかを物語る「都市のスケール」そのものだったのです。

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皇室との絆を物語る、九条道孝公の扁額

鳥居の中央を見上げると、そこには重厚な銅製の「扁額(へんがく)」が掲げられています。

「談山神社」の四文字を揮毫したのは、明治・大正期の公卿、九条道孝(くじょう みちたか)公です。

九条道孝公は、大正天皇の后である貞明皇后の実父。藤原鎌足公を始祖とする藤原氏の正統・九条家ゆかりの人物による筆跡は、この神社が藤原一族、そして皇室にとって極めて格調高い聖域であることを無言で伝えています

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藤原氏の「はじまり」と「祈り」の場所

なぜ、この鳥居に藤原氏の末裔である九条家の筆跡が残されているのか。それは、談山神社が藤原氏にとって「特別な一族の聖地」だからです。

  • 「談山(たんざん)」の名前の由来: 飛鳥時代、大化の改新(645年)の立役者である藤原鎌足(ふじわらの かまたり)公と中大兄皇子が、この山に登って「大化の改新」の密談を交わしたことから「談い山(かたらいやま)=談山」と呼ばれるようになりました。
  • 鎌足公が眠る場所: 鎌足公が亡くなった後、その長男である定恵(じょうえ)が、父の墓をこの多武峰に移し、十三重塔を建てたのが神社の始まり(当時は多武峰妙楽寺)とされています。

つまり、ここは日本最大の名門・藤原氏の祖である鎌足公が眠る、一族にとって最も大切な場所なのです。

明治時代に掲げられた「九条道孝公(藤原氏の正統な末裔)」による扁額は、1200年以上の時を超えてもなお、一族がこの地を大切に守り続けているという強い絆の証でもあります。

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大正八年の刻銘が語る、藤原鎌足公への敬意

鳥居の足元をふと見ると、もう一つ歴史の証人が佇んでいます。それが「別格官幣社 談山神社」と堂々と刻まれた石碑です。

そこには「大正八年十一月建之」という文字も刻まれています。

実はこの大正8年という年は、祭神である藤原鎌足公が亡くなってからちょうど1250年という、極めて大きな節目の年でした

別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ)」とは、明治から戦前にかけて、国家に多大な功績があった人物を祀る、格別に格式高い神社に与えられた称号です。

江戸時代に建てられた石造りの大鳥居に、大正時代の誇り高い石碑が寄り添う姿。それは、かつての「多武峰妙楽寺」が神社へと姿を変えた後も、ここが藤原氏の聖地、そして日本の歴史を支えた偉人を祀る場所として、時代を超えて大切に守り継がれてきた証でもあります。

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「一の鳥居」を起点とする、5.5kmの祈りの道

この鳥居が「一の鳥居」と呼ばれる最大の理由は、足元に残る「談山神社多武峰町石(ちょういし)」にあります。

江戸初期の承応3年(1654年)に造立されたこの町石は、ここ「一の鳥居」を起点(一町目)として、本殿近くの摩尼輪塔までの約5.56kmにわたり、52基が設置されました。

板碑(いたび)型で高さ約150cm、幅33cmという堂々たる石柱は、今も古道の傍らで静かに歴史を伝えています。

実はこの「52」という数には、非常に深い意味が込められています。 それは、私たちが迷い(因位)」から「悟り(仏界)」へと至るための、52段階の仏道修行のプロセスをあらわしているのです。

  • 十信・十住・十行・十回向: 最初の方にある40の町石は、まだ迷いの中にいる「凡夫(ぼんぷ)」の段階。
  • 十地: そこからさらに登り、聖者の域に達する「菩薩行」の段階。
  • 等覚・妙覚: そして最後、ついに仏に等しい悟りへと辿り着く最終段階。

52基目のゴール地点に建つのは、「摩尼輪塔(まにりんとう)」。摩尼(まに)とは、あらゆる願いを叶え、汚れを払うとされる「宝珠」のことです。

一の鳥居(迷いの世界)から始まった5.5kmの修行の道は、この塔に辿り着くことで、自分自身の心の中に眠る「悟りの宝」を見出すという物語で締めくくられるのです。

現地の説明板より引用させて頂きます。

談山神社多武峰町石(県指定史跡)

談山神社の一ノ鳥居から、摩尼輪塔までの約5.56㎞の間に、参道に沿って52基の町石が建てられていた。町石の形式は板碑型で、町石の高さ約150cm、幅33cmである。江戸初期承応3年10月16日に、法眼が施主となって造立した。52基の町石は、因位(まよい)から仏界(さとり)に至る仏道修行をあらわし、十信、十住、十行、十回向までは凡夫、十地は聖者の菩薩行、等覚(仏に等しいさとり)、妙覚(迷を減尽した仏界)とに分けられている。 

そもそも、神社からこれほど遠く離れた場所に鳥居があるのはなぜでしょうか。

それは、ここが日本最大の名門・藤原氏の祖である鎌足公が眠る、極めて格の高い聖域だからに他なりません。それほど高い格式を持つ場所だからこそ、これほど遠い場所からすでに結界(鳥居)が始まり、神聖な空間が保たれているのです。

かつての参拝者は、この巨大な鳥居をくぐり、一町(約109m)ごとに現れる町石を一つひとつ数えながら、自らの心を見つめ直し、一歩ずつ悟りの階段を登るようにして山上の聖域を目指したのでしょう。この5.5kmの道のりそのものが、壮大な「修行の場」だったのですね。

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歴史の傷跡を今に伝える姿

鳥居をよく観察すると、向かって右側の横梁が大きく欠けていることに気づきます。

これは昭和23年に隣接する民家で起きた火災によるもの。高熱によって石が弾け飛んだ傷跡ですが、あえて修復されないまま残されています。この欠け跡さえも、この地が歩んできた「生きた歴史」の一部として、独特の凄みを放っています。

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おわりに:神域へのプロローグ

今は静かな住宅街の中に建つこの「大鳥居」ですが、かつては「多武峰三千坊」と称された巨大な宗教都市、多武峰妙楽寺の堂々たる玄関口でした。

藤原氏の祖・鎌足公が眠るこの場所が、どれほど格別な聖域であったかは、5.5kmも手前からこれほど立派な「結界(鳥居)」が始まり、神聖な空間を厳格に保っていたことからも分かります。5.5kmという距離は、単なる道のりではなく、神域の格の高さを証明する「祈りの広さ」そのものだったのですね。

車やバスで通り過ぎてしまいがちな場所ですが、ここから始まる歴史の深さを知ると、いつもの景色も少し違って見えてくるから不思議です。300年前の参拝者と同じように、一の鳥居で一礼してから山上へと向かう――そんな丁寧な旅も素敵かもしれません。

さて、ここから始まる「祈りの道」の先には、一体どんな景色が待っているのでしょうか。 次回は、いよいよ山上の境内へ。旧妙楽寺の面影を色濃く残す、談山神社の華やかな見どころをたっぷりとご紹介しますね。

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さくらい六街道を巡り歩く~ひみこの里・記紀万葉のふるさと

こちらの記事では、古代ヤマト王権の中心地であり、そこかしこに万葉人の足跡が見える桜井市の魅力を「桜井市役所 観光まちづくり課」さんが発行されている観光パンフレット「さくらい六街道巡り歩く」を足掛かりにお伝えしています。

さくらい六街道とは、今回の記事でご紹介した「多武峰街道」を含むの六つの街道のことをいいます。

  • 山の辺の道
  • 伊勢街道(初瀬街道)
  • 多武峰街道
  • 忍坂街道
  • 磐余の道
  • 大和長寿道

これらの街道沿いには、記紀万葉集ゆかりの地や、古墳、神社仏閣など、桜井市の豊かな歴史と文化を感じられる観光スポットが点在しています。桜井市では、これらの「さくらい六街道」を巡り歩くことで、古代のロマンに触れる観光を推進されています。

談山神社の大鳥居(一の鳥居)へのアクセス

奈良県桜井市上之宮82

駐車場はありません。
JR・近鉄桜井駅より、「多武峰街道(とうのみねかいどう)」を南へ歩いて徒歩約25分です。

多武峰街道とは、桜井の市街地から、十一面観音で有名な聖林寺を経て、談山神社へと続く古くからの参詣道です。かつて「多武峰三千坊」と呼ばれた巨大な宗教都市へと、日本中から訪れる巡礼者が歩いた歴史ある道です。

中大兄皇子や藤原鎌足も歩いたかもしれないと思うと、ワクワクしました。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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