充実の展示!「桜井市立埋蔵文化財センター」で縄文時代から古墳時代まで体系的に学ぶ

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奈良県橿原市の「奈良県立橿原考古学研究所附属博物館」で開催されていた「ホケノ山古墳―大和王権の成立へ―」を見て以来、纏向遺跡に興味深々のみくるです。

今回は、桜井市の遺跡から出土した埋蔵文化財の研究と展示などを行っている「桜井市立埋蔵文化財センター」の展示内容をご紹介します。

桜井市立埋蔵文化財センター

桜井市の埋蔵文化財の発掘調査や研究の成果を社会に普及、地域文化の振興に役立てる場として芝運動公園の一角に、昭和63年10月に建設されました。常設展示年3回の特別展企画展が開催されています。

今回ご紹介するのは常設展示の模様です

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桜井市立埋蔵文化財センター

概要

桜井市立埋蔵文化財センターは、奈良県桜井市の芝公園の一角にあり、すぐ近くに大神神社の大鳥居が見えます。

桜井市立埋蔵文化財センターから見る大神神社の大鳥居

桜井市が運営する施設なので規模は小さいのですが、充実した展示内容で、大変学びになりました。興味を持っている纏向遺跡についても詳しく知れて楽しかったです。

常設展示と企画展示

展示室の手前に常設展示、奥に企画展示があり、「令和6年度 発掘調査速報展29 50cm下の桜井」が開催中でした。

「令和6年度 発掘調査速報展29 50cm下の桜井」の模様

近畿で10例!貴重な分銅形土偶も【令和6年度 発掘調査速報展 50㎝下の桜井】桜井市立埋蔵文化財センター

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常設展示

桜井市で出土したさまざまな埋蔵文化財が、時代別・テーマ別に展示されています。

狩猟・採集そして稲作へ

桜井市で遺跡が見つかっているのは後期石器時代からです。この時代の特徴であるナイフ形石器翼状剥片つばさじょうはくへんが出土していることから、この頃にはヒトがこの地に足を踏み入れ、狩猟生活を営んでいたと考えられます。

常設展示「狩猟・採集そして稲作へ」

ナイフ形石器は、後期旧石器時代に使われた剥片はくへん石器のことです。

サヌカイトから石器用の剥片を連続して効率良く剥ぎ取る技法を瀬戸内技法といい、そうして得た剥片を翼状剥片つばさじょうはくへんと呼びます。

ナイフ形石器と翼状剥片の解説

弥生のムラと暮らし

弥生時代には、水稲農耕に適した河川の周辺や山裾の近くの微高地などにムラが営まれました。

常設展示「弥生のムラと暮らし」

弥生時代の墓制とマツリ

縄文時代までの埋葬は土壙墓どこうぼが主流でしたが、弥生時代には棺に納めて埋葬するようになりました。

常設展示「弥生時代の墓制とマツリ」

弥生時代では、墓の前で行うマツリや、農作物の生育と豊穣を祈り、収穫を感謝するための農耕祭祀が行われるようになります。

このマツリは、土器や木製品に描かれた絵から銅鐸鳥形木製品など様々な道具が用いられていたと考えられています。

絵画土器

とくに銅鐸は近畿~東海地方で主に分布する青銅器で、桜井市内では大福遺跡で埋納された銅鐸が出土しています。

銅鐸の出土状態(大福遺跡)

銅鐸は、よくムラの端や離れた場所から発見されます。銅鐸が埋納された理由として、現在よく取り上げられるのは、地中保管説と境界説です。

大福遺跡出土の銅鐸
大福遺跡出土の銅鐸

大福銅鐸は、昭和60年の大福小学校舎」建て替えに伴う発掘調査で出土しました。ひれを立て横に寝かせて出土した状況は、その埋納方法を知る貴重な例として非常に注目を集めました。

マキムクの時代

弥生時代を通じて活発な活動が繰り広げられていた拠点集落では、2世紀末から3世紀初頭になると環濠が埋め立てられ、集落の規模も小さくはっきりとしなくなることが解っています。

弥生集落が衰退・廃絶に向かうちょうどその頃、これらと入れ替わりに出現するのが纏向遺跡です。弥生時代には集落がなかった場所に突如として径約1㎞と当時としては国内最大の規模を持つ巨大な「マチ」が出現したのです。

マキムクの時代の模型

それは、それまでの農耕的色彩の強い弥生時代集落のような自然発生的なものではなく、極めて強い政治的意図のもとにつくりあげられたマチであると考えられています。

纏向遺跡ガイドマップ

前方後円墳の創出

纏向の地に「前方後円墳」がつくり出されます。これは弥生時代にはなかった新しい墓の形で、纏向で成立したのち、古墳の造り方やマツリの方法などが全国に広がっていきます

纏向遺跡における最大の前方後円墳は箸墓古墳です。築造された年代は3世紀後半(布留0式期)と考えられています。

遺跡内には3世紀に築かれたと考えられる出現期の古墳があります。国史跡である纏向石塚古墳ホケノ山古墳をはじめ、纒向矢塚古墳纒向勝山古墳東田大塚古墳などの前方後円墳です。

纏向石塚古墳
纏向石塚古墳

纏向遺跡内最古の古墳!?【纏向石塚古墳】奈良県桜井市の纏向古墳群を巡る(その3)

これらの古墳は一定の築造企画のもとにつくられたものであることが判明しており、その成立の地の名前をとって「纏向型前方後円墳」と呼ばれています。

纏向型前方後円墳の特徴

纏向型前方後円墳の特徴

  1. 後円部に比べて著しく低平な前方部を持ち、全長:後円部径:を前方部長の比率が正しく3:2:1を原則としていること。
  2. 後円部は正円形のものは少なく、扁球形・倒卵形、あるいは不整円形を呈すること。
  3. 後円部から前方部までは極めて緩やかなスロープを作って移行するため、平面的には後円部と前方部間に「連結部」を形成する場合が多いこと。
  4. 周濠を有するものは前方部全面を欠くかあっても極めて矮小であること。

さらに、この企画はメクリ1号墳のような前方後方墳にも適用されたと考えられています。

纏向古墳群の出土品

纏向に集う人々

纏向遺跡では、大和以外の地域でつくられ持ち込まれた土器搬入土器)や、他の地域の影響を受け大和の地でつくられた土器が数多く出土しています。これらは外来系土器と呼ばれます。

纏向遺跡に集う搬入土器

纏向遺跡へ土器を搬入した地域は、西は九州から東は南関東地域にいたる広い範囲にわたっていることがわかっており、特に東海地方の特徴をもったものが目立ちます。このような状況は、他の遺跡ではあまり見られず、纏向遺跡の大きな特徴といえます。

こうした土器の動きは、人々の移動や地域間の交流を示しており、3世紀最大の集落である纏向の地に多くの人々が集まったといえるでしょう。

纏向遺跡の鉄生産

纏向遺跡では鉄素材を外部から仕入れた後に製品を加工する工程の小鍛冶こかじが行われていました。主な出土物には鞴羽口ふいごはぐち鉄滓てっさい鍛造剥片たんぞうはくへん砥石といしなどがあり、その分布状況からは小規模な工房が遺跡内に散らばって生産にあたっていたと考えられます。

纏向遺跡から出土した鉄製品

なかでも、鞴羽口は他地域との技術交流を示す資料として注目されます。出土した羽口には断面がカマボコ形をしているものが含まれており、これは纏向遺跡の鍛冶技術に北部九州系の技術が導入された結果と考えられています。

マキムクの居館

辻地区検出の建物群の模型が展示されていました。

纏向遺跡「辻地区検出の建物群」の模型

3世紀前半~中頃(庄内式期)の掘立柱建物群とこれを取り囲む柱列(柵)が見つかり、一帯が庄内式期の纏向遺跡の中心であったことが確認されました。

マキムクの居館の解説パネル

居館域の構造の解明は、弥生から古墳時代への社会変化や、後の大王・天皇の宮の構造を研究する上で貴重な資料となるでしょう。

古墳時代へ

前方後円墳を頂点とする古墳の諸形式は、古墳時代(3世紀~6世紀頃)を通じて日本列島の広い範囲で共有されるものでした。時期や被葬者の社会的立場に応じ、様々な古墳がつくられました。

古墳の築造には多大な労働力が必要であり、その背景には被葬者の大きな権力が推定されます。このことから、古墳は、墓であることに加え、政治的な意味を持つ構築物であったと言うことができます。

ホケノ山古墳
ホケノ山古墳

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古墳と副葬品

数多くつくられた古墳のなかでも、全長200mを超えるような巨大な前方後円墳は、当時の日本列島における中心的な人物(大王)の墓であると考えられます。 

大王墓は奈良盆地や大阪平野に集中しており、当時の政治の中心が近畿中央部に存在していたことを示しています。

孝元天皇陵
孝元天皇陵

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墳丘と同じように、埋葬のための施設の形や、そこにおさめられた副葬品もまた、被葬者の社会的な立場を反映するものと考えられます。

茅原大墓古墳の盾持人物埴輪
茅原大墓古墳の盾持人物埴輪

威信財~古墳時代の人々のステイタス

さまざまな副葬品のなかには、そこに葬られた人物の権威をあらわす「威信財いしんざい」とよばれるものがあります。

古墳時代前期(3~4世紀頃)の三角縁神獣鏡などの銅鏡や腕輪形石製品、中期(5世紀頃)の甲冑、後期(6世紀頃)の装飾太刀金銅装馬具などがその代表例にあげられます。

出土した威信財

威信財はその生産や流通が、当時の政権や有力者によって管理されていたと考えられます。これらの遺物は、古墳時代における首長間の政治的な関係を示す重要な指標となっています。

埴輪のはじまり

「ハニワ」の名称は、『日本書紀』によると、古代の人々が赤色の粘土を「ハニ」と呼んだことに由来します。ハニワはその形や用途から円筒埴輪形象埴輪の2種類に分けられます。

形象埴輪と円筒埴輪

円筒埴輪の起源は、吉備地方(現在の岡山県付近)で発達した特殊器台という大型化された器台であると考えれています。

古墳時代前期の桜井域では、箸墓古墳に特殊器台、桜井茶臼山古墳に二重口縁壺、メスリ山古墳に大型の円筒埴輪をそれぞれ配列していたことがわかっており、埴輪成立期における古墳祭祀の多様性を物語っています

墳丘を飾る埴輪と木製品

整然と並べられた埴輪や木製品は、古墳を荘厳化する効果を有しています。とくに埴輪には多くの種類があり、多くの古墳で採用されました。

墳丘を飾る埴輪と木製品

埴輪や木製品の配列は、そこでとり行われた葬送儀礼における重要な一要素でもあります。『日本書紀』に見られる記述では、埴輪は殉死の代わりとして並べられたのがはじまりとされていますが、現在の研究成果から否定されています。埴輪の配列には様々な儀礼の一場面が表されていると考えられます。

墳丘を飾る埴輪や木製品は、桜井市内でも多くの古墳から見つかっています。なかでも小立古墳の例は、それらの配列やセット関係がわかる良好な資料であり、全国的にも注目される貴重な事例となっています。

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磯城・磐余の諸宮

桜井市から天理市にかけての奈良盆地東南部地域では、3世紀から相次いで大王墓クラスの古墳が築造されました。しかし、4世紀後半になると、その分布は奈良市付近(佐紀盾列古墳群)、あるいは大阪府の河内(古市古墳群)・和泉地域(百舌鳥古墳群)を中心とするようになり、桜井市の勢力が衰退していったと推定されます(図1・2参照)。

磯城・磐余の諸宮の解説パネル

いっぽうで文献資料から見ると、4世紀から6世紀頃の歴代天皇の宮は、「磯城しき」(現在の桜井市北部から磯城郡)、「纏向まきむく」(桜井市北部)、「泊瀬はつせ」(桜井市東部)、「磐余いわれ」(桜井市西南部)など、桜井市域と考えられる地名が冠されたものが目立ちます(表1参照)。すなわち桜井市域は、古墳時代を通じて政権の中枢地であり続けたと考えることができます

古墳時代の諸宮の一覧表

このように4世紀から6世紀頃の桜井市域は、大王墓のあり方から見た場合と、文献資料から見た場合では、その印象が大きく異なっています。この問題を解く鍵となるのが宮跡の発見です。しかし、残念ながらこの時期の宮は、考古資料としてはほとんど確認されていません。

応神天皇軽島豊明宮跡の伝承碑
応神天皇軽島豊明宮跡の伝承碑

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この時期の宮が発掘調査で確認されれば、それは古代史の空白を埋める大発見となるでしょう。桜井市域には、そうした発見の可能性を秘めた遺跡が数多く眠っています

三輪山信仰と祭祀遺跡

桜井市には古くからの信仰の対象として、人々に親しまれてきた「三輪山みわやま」が存在します。三輪山(標高467.1m)は奈良盆地の広い範囲から望むことができ、その円錐形の秀麗な山容は、『記』『紀』『万葉集』に「三室山みむろやま」や「三諸山みもろやま」とも詠まれ、西麓に鎮座する大神神社の御神体として、広く信仰されています。

大神神社の大鳥居と三輪山
大神神社の大鳥居と三輪山

三輪に現存する唯一の酒蔵【今西酒造】三諸杉と三輪のどぶろくと「うま酒」を詠んだ万葉歌

三輪山信仰に関連する祭祀遺跡は、5~6世紀代を中心とするもので、山中や山麓の他、三輪山を望む平野にも確認できます。

三輪山信仰と祭祀遺跡

三輪山中から西麓には、三輪山信仰の一形態である巨石を祀った磐座が点在しています。また、磐座の下から多くの祭祀遺物が見つかった山ノ神遺跡や、多量の須恵器を納めた大甕などが出土した奥垣内遺跡など、大神神社の境内やその周辺を中心に、土器や土製品模造品、滑石製品、玉類などの祭祀遺物が集中しています。

三輪山麓(山ノ神遺跡)から出土した祭祀遺物

このような三輪山やその周辺で執り行われた祭祀は、古墳の葬送儀礼などと共に、ヤマト王権の儀礼・祭祀として、各地へと広がっていきました。

被葬者を彩る装身具

古墳の内部には様々な副葬品が供えられます。このうち被葬者が身につけていたものを装身具と呼んでいます。

被葬者を彩る装身具

装身具は、その名の通り「身を装う」アクセサリーとしての役割もそなえていますが、出土する装身具の量・質・種類の格差が被葬者の身分・地位の上下や性別をあらわすとも考えられています。また、垂飾付耳飾すいしょくつきみみかざり釵子かんざしといった朝鮮半島系の装身具が出土する古墳では、被葬者の系譜や出自を考える上で重要な資料となります

桜井市内の赤尾崩谷1号墳より出土した装身具

古墳から出土する装身具は、埋葬当時の状態を保ったまま発見される例は少ないのですが、桜井市内の赤尾崩谷あかおくずれたに1号墳では着装した状態を留めた形で出土しました。華麗な装身具で彩られた被葬者像をうかがうことができます。

横穴式石室の世界

古墳時代後期(6世紀頃)になると、古墳の埋葬施設は竪穴系のもの(竪穴式石室など)から、横穴式石室に変化します。横穴式石室は中国の葬法が朝鮮半島を経由して伝わったもので、日本列島に本格的に広まるのは6世紀以降です。

横穴式石室の世界

石室の横に通路が付いていることにより一つの石室に数度にわたって埋葬できるため、葬送儀礼などの精神的な面においても大きな変化をもたらしました。副葬品もそれまでの鏡や多量の武器などに替わって、馬具装飾品、死後の世界で使う土器類に変化していきます。

都塚古墳
都塚古墳

蘇我稲目のお墓?!【都塚古墳】古代のピラミッドと話題に【古墳巡り~明日香村】

6・7世紀代は群集墳という形で小さな古墳が密集して築かれることも多く、桜井市内に存在する8割以上の古墳がこの時期に築かれたものといえます。

それは、今まで古墳の築造が権力をもつごく一部の人に限られていたものからら、より広い階層の人々のものへと変化していったことをあらわします。これは社会体制の変化をも意味し、後の律令国家へ向かう転換期であったといえるでしょう。

最後に

縄文時代から古墳時代までの時代の移り変わりを体系的に学ぶことができて、知識の整理ができました。桜井市内の古墳や遺跡を訪れて、学んだことを確認しようと思います。

こちらの記事では、「令和6年度 発掘調査速報展29 50cm下の桜井」についてご紹介しています。

近畿で10例という貴重な分銅形土偶などが見学できました。

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桜井市立埋蔵文化財センターへのアクセス

アクセス

奈良県桜井市芝58-2

近鉄・JR桜井駅下車、天理駅行バスで 三輪明神参道口下車、北へ徒歩2分
JR三輪駅下車、徒歩西へ10分

無料駐車場あり

利用案内

住所: 奈良県桜井市芝58-2
電話: 0744-42-6005
休館日: 月火(祝日の場合開館)、祝日の翌日
開館時間: 9:00 – 16:30
入館料: 企画展・速報展 200円、特別展 300円(小中学生は半額)

次の場合は入館料が無料になります。

  • 未就学児童
  • 市内在住の小・中学生
  • 障害者手帳所持者(障がい者1名につき、介添の方1名無料)

特別展の日程など、詳しくは桜井市の公式サイトをご覧ください。
市立埋蔵文化財センター/桜井市 (sakurai.lg.jp)

近隣のおすすめスポット

こちらの記事では、桜井市立埋蔵文化財センターよりほど近い纏向勝山古墳をご紹介しています。

古墳前の駐車スペースに車を停めて、纏向古墳群巡りができます。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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