橿原市の史跡を巡る【新沢千塚古墳群周辺を歩く】橿原神宮前駅~新沢千塚古墳群(奈良県橿原市)

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マップを見ながら古代の史跡をめぐるのが好きなみくるです。

今回は橿原市観光協会さんの観光パンフレット「橿原まちあるきまっぷ~新沢千塚古墳群を歩く」に掲載されているスポットをご紹介します。

橿原まちあるきまっぷ「新沢千塚古墳群を歩く」

古代の王族の古墳群は遥か遠い時代の面影が今もそのままに。

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新沢千塚古墳群周辺を歩く~橿原市観光

「橿原まちあるきまっぷ」に従って、近鉄橿原神宮前駅からスタートするルートでご紹介します。

橿原まちあるきまっぷ「新沢千塚古墳群(中面)

久米御縣神社

久米寺の山門近くに鎮座する久米御縣神社くめのみあがたじんじゃは、『日本書紀』垂仁天皇紀27年に「是歳屯倉を来目邑に興す」とあり、かなり早期からこの地にあったものと思われます。江戸中期から明治初年にかけては、天神社・天満宮と呼ばれていた時期もありましたが、明治中期以降は、元の久米御縣神社に戻っています。

久米御縣神社

『日本書紀』によると、神武東征で活躍した大伴氏と久米氏は褒美として、それぞれ「築坂邑」と「久米邑」に宅地を賜ります。鳥坂神社(鳥屋町)の近くには「築坂邑伝承地」の石碑が建っています。鳥坂神社は大伴氏、久米御縣神社は久米氏の祖先を祀られています。大伴氏は新沢千塚古墳群の被葬者の候補地のひとりに挙げられています。

久米寺

推古天皇の勅願により、用明天皇の皇子・聖徳太子の弟である来目皇子によって建立されました。創建のきっかけは、7歳の時に眼病を患った来目皇子が、この地で治癒祈願し全快した御礼だったとされ、本尊の薬師如来像にお願いすると、眼病に霊験があるとされています。多宝塔は重要文化財に指定されています。

久米寺

益田池堤跡【県指定史跡】

益田池は平安時代の初めに造られた巨大な灌漑用の池で、「田を益すの功ありし」より益田池と号せられました。その堤は貝吹山から北に派生している鳥坂神社の位置とする尾根と、鳥屋橋のある久米台地の西南先端部との狭い間をせきとめたもので、往時の規模は幅約30m、高さ8m、長さ200mという巨大な堤でしたが、現在は長さ約55mに当時の面影を留めているに過ぎません。

益田池堤跡

1961年(昭和36年)4月、高取川河川改修工事の際には、川底から樋菅が2箇所で出土し、現在、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に展示されています。

新沢千塚古墳群【国指定史跡】

総数約600基からなる古墳群で、日本を代表する群集墳です。360基前後の古墳の大部分は、径10メートルから30mの円墳ですが、9基の前方後円墳、1基の前方後方墳、12基の方(長方)墳を含み、その多彩な墳形の存在が1つの特色となっています。

新沢千塚古墳群

126号墳からは多くの副葬品が出土し、特にガラス製の椀と皿はペルシャ地方(現在のイラン・イラク付近)からもたらされたもので、当時の日本において最も遠くから運ばれてきた品物である可能性があります。ほかにもガラス皿やガラス壺、金属指輪、帯金具など大陸的な色彩のつよい副葬品が出土しています。

歴史に憩う橿原市博物館

橿原市を代表する遺跡から出土した資料を展示する博物館で、縄文時代の終わりごろから江戸時代までの二千数百年にわたる期間の出土品を知ることができます。1階の資料整理室は出土品の復原作業を行っている様子をガラス越しに見学でき、常設展示室ではガラス越しでなく手の届く距離で本物の質感を十分に味わっていただけます。

歴史に憩う橿原市博物館

橿原市の歴史を体感!【歴史に憩う橿原市博物館】縄文時代から江戸時代までの出土品が間近に

浄国寺(廃長法寺)

長法寺は真言宗の寺(本尊は大日如来坐像)でしたが廃寺となりました。由緒についてはよくわかりませんが、むかし菅原道真が山荘を構えたところだといわれています。寛政3年(1791年)の『大和名所図会』に紹介されている本堂など当時の様子がそっくり残っています。境内の石灯籠は「正和5年(1316年)」のもので、重要文化財に指定されています。

浄国寺の石灯籠
浄国寺石造燈籠/橿原市公式ホームページ

また、隣の三神社拝殿の後方にある十三重石塔も鎌倉時代前期のものと考えられています。毎年5月頃にはボタンの花が境内を彩ります。

久米御縣神社へのアクセス

奈良県橿原市久米町786

橿原神宮前駅より徒歩5分
駐車場はありません。

橿原市の観光スポットを「橿原まちあるきまっぷ」を足掛かりに、まとめてご紹介しています。

最後までお読み頂きありがとうございす。

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