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【檜隈寺跡】東漢氏(倭漢氏)の信仰を伝える飛鳥の古代寺院(奈良県明日香村)

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古墳や古道、そして古代史の舞台となった場所を歩くのが大好きなみくるです。

奈良県明日香村の檜前(ひのくま)地区は、日本の古代史において極めて特異な場所です。なぜなら、この一帯には、第28代「宣化天皇の檜隈廬入野宮(ひのくまのいりののみや)跡」、渡来人・阿知使主(あちのおみ)を祀る於美阿志神(おみあしじんじゃ)、そして、これからご紹介する「檜隈寺跡」という、三つの重要な歴史が重なっているからです。

現在、於美阿志神社の境内地に包含されている檜隈寺跡(ひのくまでらあと)は、国史跡に指定されています。この指定は、この寺院が単なる地方の氏寺ではなく、渡来系氏族の文化と技術、そして古代仏教史を理解する上で極めて重要な遺跡であることを示しています

於美阿志神社の鳥居

この寺院は、大和朝廷で活躍した有力な渡来系氏族、東漢氏(やまとのあやうじ)の氏寺として、飛鳥時代に創建されました。本記事では、発掘調査で明らかになった寺院の特異な構造と、そこに残された貴重な文化財に迫ります。

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檜隈寺跡|渡来系氏族・東漢氏が築いた古代寺院の跡

檜隈寺の歴史:古代国家公認の氏寺

正史に記された寺の格

檜隈寺(ひのくまでら)」の創建時期は、7世紀後半から末頃、すなわち飛鳥時代後期と考えられています。

東漢氏(やまとのあやうじ)は、高い行政能力、金工、土木などの技術力を持ち、ヤマト王権の外交や財政を支えた集団です。彼らはその技術力と組織力を背景に、氏族の繁栄を祈願してこの地に壮大な氏寺を建立しました。

檜隈寺跡の現地説明板「渡来人の足跡」

檜隈寺の格式の高さを示すのが、正史『日本書紀』の記録です。

『日本書紀』朱鳥元年(686年)八月条の記載

(朱鳥元年八月)二十六日(己丑の日)、檜隈寺(ひのくまでら)、軽寺(かるでら)、大窪寺(おおくぼでら)の三つの寺に、それぞれ(寺の運営費用として)百戸(ひゃくこ)(税収源となる)民を(食封:じきふ として)与える。期限は三十年とする。

この記述は、檜隈寺が存在していたことを証明する、正史における唯一の記録です。

当時の寺院にとって、食封(じきふ)として朝廷から戸(税金を納める民)を与えられることは、寺の維持・運営が国から公的に認められ、経済的に保障されたことを意味します。

この措置が取られた朱鳥元年(686年)は、天武天皇が崩御される直前にあたります。そのため、この記事は、天皇の病気平癒を祈願する国家的な仏教行事の一環として、これら三つの寺院に特に手厚い保護が与えられたことを示唆していると考えられています。

特に檜隈寺は、渡来系氏族である東漢氏の氏寺でありながら、同等の食封を与えられたことで、その社会的地位が極めて高かったことが裏付けられます

氏族の誇り:坂上田村麻呂との繋がり

この檜隈寺を建立した東漢氏の子孫からは、平安時代に征夷大将軍として名を馳せた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が出ています。

檜隈寺跡の現地説明板「渡来人の氏寺として建立された

東漢氏のような渡来系氏族は、技術力だけでなく武勇にも優れており、その血筋は時代を超えて日本の歴史に大きな影響を与え続けました。檜隈寺は、そうした東漢氏一族の精神的なルーツを象徴する場所でもあったのです。

檜隈寺はその後、古代の伽藍は失われたものの、鎌倉時代までこの地に存在していたと考えられています。

ここでご紹介している現地説明板は、国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区に設置されているものです。

檜隈寺跡の現地説明板と、檜隈寺跡の遠景

檜隈寺跡は樹林の向こう側にあります。

「檜前」と「檜隈」―表記の違いについて

現在この地は「檜前(ひのくま)」と呼ばれていますが、古代の史料には「檜隈(ひのくま)」という表記も見られ、時代の移り変わりとともに漢字表記が変化したとされています。

「隈(くま)」は古くは「入り江」や「谷間」を意味し、地形を表す言葉でした。
のちに「前(まえ)」の字があてられるようになり、地域名としては「檜前」が定着しました。

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発掘調査で判明した「特異な伽藍配置」

檜隈寺跡が国史跡として評価される最大の理由は、発掘調査によって明らかになった、他の飛鳥寺院には見られない特異な伽藍配置にあります。

南北配置の特異性

  • 配置の構造: 塔を挟んで、北に講堂、南に金堂を置く、南北に展開した構造です。
  • 西向き: 伽藍全体が西側を正面(中門)とする配置でした。これは、朝鮮半島など大陸からの渡来系氏族が西方を祖国とする信仰の影響を受けた可能性を指摘する見解もあります。
檜隈寺跡の現地説明板「特異な伽藍配置」

講堂跡が示す渡来技術:瓦積基壇

檜隈寺跡で特に注目すべきは、講堂跡に残された基壇の構造です。

講堂は、僧侶が集まり仏教の教えを学び、儀式を行う、寺院にとって非常に重要な建物です。檜隈寺の講堂跡では、基壇の表面を瓦を積み重ねて仕上げるという、「瓦積基壇(かわらつみきだん)」の遺構が発見されました。

檜隈寺跡の現地説明板

この工法は、当時の東アジア大陸(特に百済など朝鮮半島)では一般的でしたが、飛鳥時代の日本国内、特に飛鳥地域では極めて珍しい特殊な技術です。

これは、東漢氏が単に寺を建てただけでなく、彼らが大陸から持ち込んだ高度な建築技術や文化を、氏寺の最も重要な建物の一つに積極的に用いた動かぬ証拠であり、国史跡指定の大きな根拠となっています

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渡来文化の証:出土遺物から見る東漢氏の技術力

檜隈寺跡やその周辺から見つかった出土品は、この地が飛鳥の渡来文化の拠点であったことを具体的に示しています。

檜隈寺跡の現地説明板「出土遺物から見る東漢氏の技術力」
  • 金銅製飛天像(こんどうせいひてんぞう)や小金銅仏の手:これらは、当時の最先端であった高度な金工技術の存在を示唆しています。
  • 「呉」とヘラ書きされた文字瓦:瓦に「呉」という文字が書かれていました。当時の「呉」は大陸文化全般を指す言葉としても使われ、造営に携わった人々の強い渡来意識を物語っています。

これらの遺物は、檜隈寺が東漢氏の技術と文化力を結集した、氏族の誇りの象徴であったことを雄弁に伝えています。

※ここでご紹介している現地説明板は、檜隈寺跡前休憩案内所に設置されていたものです。

檜隈寺跡前休憩案内所

檜隈寺跡前休憩案内所は、公園内の再整備に伴い、令和7年10月1日(水)より利用休止になっています。
トイレは引き続き利用できます。

檜隈寺跡前休憩案内所の利用再開は、令和12年頃を予定しております。
具体的な利用再開日が決まり次第、公園ホームページにてお知らせいたします。

【大切なお知らせ】檜隈寺跡前休憩案内所ご利用休止 | 国営飛鳥歴史公園

国営飛鳥歴史公園の公式サイトで、最新の状況をご確認のうえ、お出かけ下さい。

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現存する仏教の証:十三重石塔(重要文化財)

現在、檜隈寺跡で最も目を引くのが、於美阿志神社の境内にそびえる十三重石塔です。

信仰を繋いだ平安時代後期の石塔

この石塔は、正式には「於美阿志神社石塔婆」として国の重要文化財に指定されています。もとは十三重でしたが、現在は上部を欠き十一重となっています。

檜隈寺跡の十三重石塔

この石塔は、飛鳥時代に建立された木造の塔が倒壊した後、その心礎が残された上に、平安時代後期に寺の再興を願って建てられました。

檜隈寺跡の十三重石塔(重要文化財)

復元模型から読み解く創建当時の姿

石塔のすぐ傍に設けられている塔心礎(とうしんそ)の復元模型は、古代の塔の中心部の構造を伝えています。心礎が原位置に残され、その上に後世の信仰の象徴(石塔)が建つという構造は、この地が古代から中世に至るまで、神聖な信仰の中心地として守られ続けたことを物語っています。

十三重石塔の塔心礎の復元模型
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幻の儀礼を物語る:幢竿支柱の痕跡

さらに発掘調査では、幢竿支柱(どうかんしちゅう)のための穴が2基発見されています。

檜隈寺跡の現地説明板「幢竿支柱の痕跡」
  • 幢竿支柱とは、仏教の法要や祭典の際に、空間を荘厳するために掲げられた幡(はた)を支える竿の柱跡です。
  • この遺構は平安時代中期(10世紀以降)のものと推定されており、壮大な伽藍が失われた後も、東漢氏の後裔たちがこの地で重要な仏教儀礼を継続的に行っていたことの確かな証拠です。
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檜隈廬入野宮・於美阿志神社とのつながり

檜隈寺跡には、宣化天皇の檜隈廬入野宮(ひのくまのいりののみや)跡と、渡来系氏族の祖・阿知使主(あちのおみ)を祀る於美阿志神社(おみあしじんじゃ)もあります。
これらの史跡は、飛鳥の黎明期における渡来人文化の重要な拠点を形成していました。

檜隈廬入野宮は、6世紀中ごろに宣化天皇が宮を構えたとされる場所で、飛鳥時代の幕開けを告げる歴史的舞台のひとつです。その地に東漢氏の氏寺・檜前寺が存在していたことは、この一帯が政治と文化の両面で活気に満ちていた地域であることを物語っています。

また、於美阿志神社に祀られる阿知使主は、東漢氏(やまとのあやうじ)の祖とされ、檜前寺の建立にも深く関わったと考えられています。阿知使主がもたらした先進的な文化や技術、そして仏教への信仰が、この地で花開き、後の飛鳥寺など国寺建立の流れへとつながっていきました。

檜隈寺跡を訪れると、まず於美阿志神社の鳥居が見えます。まるで、神と仏が同じ地に息づいてきたことを今も静かに伝えているようです。
この場所には、古代の人々が祈りを込めた神仏習合の原風景が残されているのかもしれません。

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まとめ:静かな史跡に感じる、古代への祈り

檜隈寺跡は、いまは人影も少ない静かな場所ですが、ここにはかつて、渡来系氏族の東漢氏(倭漢氏)によって建立された立派な寺院がありました。

瓦積基壇の講堂、心礎の上に再興された十三重石塔、そして幢竿支柱が見つかった儀礼の空間――。
それぞれの遺構が、飛鳥時代の息づかいと信仰のかたちを今に伝えています。

復元模型や説明板を通して、古代の伽藍を思い描いてみると、この地で祈りを捧げた人々の姿が少しだけ近くに感じられるかもしれません。

古代寺院の成立や東漢氏の足跡に関心のある方には、ぜひ訪れてほしい明日香村の歴史スポットです。

檜隈寺跡は、国史跡として保護されながら、古代の渡来文化の息吹を今に伝えています。この檜前の地を巡る際は、天皇の宮、氏寺、神社の三つの歴史が足元に重なっていること、そしてその氏族の系譜が坂上田村麻呂まで繋がっていることを感じながら歩いてみてください。

檜隈寺跡へのアクセス

奈良県高市郡明日香村檜前577

境内自由
於美阿志神社の鳥居前に小さな駐車スペースあり
近鉄吉野線「飛鳥駅」から徒歩約15分

檜隈寺跡は、「国営飛鳥歴史公園 キトラ古墳周辺地区」内にあります。

「国営飛鳥歴史公園 キトラ古墳周辺地区」の案内図

周辺の散策には、「国営飛鳥歴史公園 キトラ古墳周辺地区」の駐車場を利用されると便利です。檜隈寺跡へは第2駐車場が最寄りです。

「国営飛鳥歴史公園 キトラ古墳周辺地区」第2駐車場

檜隈寺跡は、明日香村の南西、渡来人の里として栄えた檜前地区に位置しています。この周辺地域は、国営飛鳥歴史公園の広大な敷地の一部としても整備されており、他にも多数の歴史スポットが点在しています。

明日香村を効率よく巡るための交通手段や、この周辺を含む公園全体の情報については、こちらの記事をご参照ください。

於美阿志神社の参拝とあわせて訪れると、飛鳥の歴史散策がより深まります。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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