景色を楽しみながら歌碑を訪ね歩き、いにしえの歌人の思いに触れるのが好きなみくるです。
「桜井市役所 観光まちづくり課」さんが発行されている観光パンフレット「さくらい六街道巡り歩く」には、63基もの「桜井の記紀万葉歌碑」が掲載されています。

今回は、その中から安倍文殊院の境内に建つ30番の歌碑をご紹介します。『万葉集』巻3-282に収められた春日蔵首老(かすがのくらのおびとおゆ)が詠んだ歌です。
この歌碑は、「磐余の道(いわれのみち)」沿いに建てられ、旅の不安や古代の風景を今に伝えています。歌の背景や歌碑が建てられた理由、揮毫者の朝永振一郎博士についても紹介しながら、古代の旅情を感じられる史跡をご案内します。
安倍文殊院の万葉歌碑|春日蔵首老の歌と磐余の道の歴史
歌碑に刻まれた春日蔵首老の歌(万葉集3-282)
「春日蔵首老(かすがのくらのおびとおゆ、春日倉老・春日老とも表記)」の歌碑は、奈良県桜井市の安倍文殊院の境内に建っています。

春日蔵首老の歌碑が建つのは、境内駐車場にある「安倍文殊院境内図」の傍らの、文殊院西古墳の裾にあたる場所です。


文殊池に面して建っています。

(原文)
角障經 石村毛不過 泊瀬山
何時毛将超 夜者深去通都
(読み下し)
つのさはふ 磐余も過ぎず 泊瀬山
いつかも越えむ 夜は更けにつつ
万葉集 3-282 春日蔵首老
(現代語訳)
夜は次第にふけてゆくのに、まだ磐余のあたりも越してはいない。こんなことでは、いつになったら泊瀬山を越すことができるだろう。
春日蔵首老の歌(万葉集3-282)の語義
春日蔵首老の歌「つのさはふ磐余も過ぎず泊瀬山いつかも越えむ夜は更けにつつ」の語義について、一語ずつ詳しく解説します。
つのさはふ(角障生):「磐余(いわれ)」にかかる枕詞(まくらことば)。意味としては諸説ありますが、最も有力なのは「多くの人が集まり賑わっている」というものです。角(つの)が突き交わすほど人々がひしめき合っている様子を表していると考えられています。この枕詞によって、古代の都であった磐余の賑わいが強調されています。
磐余(いわれ):現在の奈良県橿原市から桜井市にかけて広がる地域を指します。古代から宮や都が置かれた、歴史的に重要な場所です。
も過ぎず:「も」は強意の副助詞で、「…さえ」という意味合いです。「過ぎず」は「過ぎることができない」という意味なので、全体で「(重要な場所である)磐余を、まだ通り過ぎることができない」という焦燥感や不満を表しています。
泊瀬山(はつせやま):現在の奈良県桜井市初瀬にある山を指します。古くから信仰の対象とされた霊場で、都から東へ向かう際の重要な峠道でもありました。この歌では、目的地へ向かう上で越えなければならない、一つの大きな難所として描かれています。
いつかも:「いつ」は「いつになったら」という疑問、「か」は係助詞、「も」は強調を表します。この三つの助詞が重なることで、「いったい、いつになったら」という強い切望や焦りの気持ちが込められています。
越えむ(こえむ):「越え」は動詞「越ゆ(こゆ)」の未然形、「む」は推量・意志を表す助動詞です。ここでは「(泊瀬山を)越えられるだろうか」という、疑問と不安の入り混じった気持ちを表しています。
夜は更けにつつ:「つつ」は反復・継続を表す接続助詞です。この歌では、時間の経過とともに「夜がどんどん更けていく」様子を強調しています。「いつになったら越えられるのだろうか」という焦りに対し、時間は無情にも過ぎていく、という状況が示されています。
これらの語義を合わせると、この歌は「多くの人が集まる磐余を、まだ通り過ぎることもできず、いったい泊瀬山はいつになったら越えられるだろうか。夜はどんどん更けていくというのに」という、旅路の困難さと、それによる詠み手の切ない焦燥感を表現していることがわかります。
歌についての解説|春日蔵首老と旅情
詠み人:春日蔵首老(かすがのくらのおびとおゆ)
春日蔵首老(かすがのくらのおびとおゆ)は、奈良時代の官人であり歌人。万葉集に残る歌は多くはありませんが、旅や日常の中で感じた思いを率直に詠む歌が特徴です。
歌の背景
この歌は、磐余から泊瀬山へ向かう旅の途中に詠まれたと考えられます。
夜が更けても道を進めない不安や焦燥が歌に込められており、古代の道中の様子をリアルに感じさせる一首です。
万葉歌としての特徴
- 自然と旅情の描写:磐余・泊瀬山という地名を入れ、場所と心情を結びつけている
- 簡潔で力強い表現:短い言葉で状況や心情を的確に伝える
- 歴史的背景の提示:古代の交通路や地域のつながりが反映され、旅歌以上の価値を持つ
春日蔵首老の歌碑が安倍文殊院に建てられた理由
春日蔵首老の歌碑が安倍文殊院に建てられているのは、歌の舞台と深く関わっているためです。
春日蔵首老の歌には「磐余」「泊瀬山」という地名が登場します。古く「磐余の道(いわれのみち)」は安倍文殊院付近を通り、南は飛鳥へ、西は藤原京へと続いていました。
夜が更けても道を進めない旅人の不安や焦りが歌に込められ、この地に歌碑が建つことで、当時の交通路と歌の情景を追体験できるようになっています。
古代史ファンにとっては、単なる旅歌ではなく、古代の交通・街道・政治的拠点の地理的背景を重ねて楽しめる一首です。
磐余道について
「磐余の道(いわれのみち)」は、桜井市の磐余から南は飛鳥、北西は藤原京へと通じる古代の主要道路です。
古代ヤマト王権の重要拠点を結び、政治・宗教・交易の移動に使われました。現在の道路やハイキングコースのルートと重なる箇所もあります。
奈良時代以前から整備され、郡や都を結ぶだけでなく、祭祀や外交のための移動路としても利用されました。
多くの歌に「磐余」「泊瀬山」などの地名が登場します。
春日蔵首老の歌も、磐余道沿いの旅情を描いた例で、古代人の道中の心情や景観を伝える手がかりとなっています。
磐余の道沿いには古墳群や寺社、遺跡が多く、古代の政治・宗教・文化の活動の痕跡が残る地域です。
安倍文殊院や巨勢の里も、この道沿いに位置するため、万葉歌の舞台を体感できます。
「桜井の記紀万葉歌碑」が掲載されている「桜井市役所 観光まちづくり課」さんが発行されている観光パンフレット「さくらい六街道巡り歩く」には、磐余の道沿いのおすすめスポットが掲載されています。
揮毫者:朝永振一郎博士について
安倍文殊院の境内に建つ春日蔵首老の歌碑は、昭和47年(1972年)に桜井市によって建立されました。
朝永振一郎(ともながしんいちろう)博士は、ノーベル物理学賞から数年後、国民的文化人として尊敬を集めていた時期に、この歌碑の揮毫を依頼されたと考えられます。
科学者でありながら書の名手としても知られ、各地の碑文にその筆跡を残しています。
こうした背景を踏まえると、この歌碑は古代の歌(春日蔵首老の万葉歌)と現代の知性(朝永博士の筆跡)が響き合う記念碑として、特別な意味を持っているといえるでしょう。
春日蔵首老が奈良の地名を詠んだ歌をもう一首
春日蔵首老(かすがのくらのびとおゆ)が、奈良県の地名を詠んだ歌をもう一首ご紹介します。巨勢の春野や川上の風景を眺める旅人の心情を詠んだ歌です。
(原文)
河上乃 列々椿 都良々々尓
雖見安可受 巨勢能春野者
(読み下し)
川上の つらつら椿 つらつらに
見れども飽かず 巨勢の春野は
万葉集 巻1-56 春日蔵首老
(現代語訳)
川上の椿が連なって咲いている。美しい花々で、つくづく見てても飽きないな。この巨勢の春野に咲く花は。
(解説)
この歌は、持統天皇の紀伊国行幸に随行して詠まれたとされ、紀伊国から飛鳥・藤原京を経て紀伊国へ至る道中の風景を詠んでいます。
「つらつら椿」は、椿の花や葉が連なっている様子や椿の並木を指し、「つらつらに見れども」は、つくづくと眺めても飽きない様子を表現しています。
「巨勢(こせ)」は、現在の奈良県御所市古瀬あたりと考えられています。
このように、『万葉集』における歌の背景や関連性を考察することは、当時の人々の心情や風景を理解する手助けとなります。
まとめ|古代史ファンにおすすめのスポット
安倍文殊院境内に建つ春日蔵首老の万葉歌碑は、古代の交通路や旅情、奈良県の地名を想像しながら楽しめるスポットです。
歌の舞台となった磐余の道や泊瀬山、巨勢の春野などを思い浮かべながら歌碑を訪れると、古代人の息遣いと歌の魅力をより深く感じられます。
桜井市の万葉歌碑巡りの一環として、ぜひ安倍文殊院の歌碑もチェックしてみてください。
今回ご紹介した歌碑のほか、安倍文殊院には歴史や文化に触れられるスポットがたくさんあります。境内の詳しい見どころは、こちらの記事でまとめています
春日蔵首老の万葉歌碑のアクセス
設置場所:安倍文殊院境内・文殊院西古墳の裾
奈良県桜井市阿部645
TEL 0744-43-0002
境内自由(拝観時間:9時~17時)
最後までお読み頂きありがとうございます。