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敏達天皇の宮から大津皇子の悲劇へ【戒重春日神社】に残る古代の記憶(奈良県桜井市)

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里中満智子さんの『天上の虹』を読んで、『日本書紀』と『万葉集』のことをもっと知りたくなったみくるです。

『日本書紀』天武天皇11年(683)10月3日の条には、こう記されています。

庚午(かのえうま)の日に、皇子大津、訳語田(おさだ)の舎(いへ)にて、死を賜ふ。
時に年二十四。

この短い一文が、聡明で美しかったと伝わる皇子の、あまりに若い最期を伝えています。
その「訳語田(おさだ)」とはどこなのか――。
古くから奈良県桜井市戒重(かいじゅう)太田の二説があり、いずれも大和の古代王権と深く結びつく地です。

今回は、そのひとつ「戒重説」の舞台となる、「戒重春日神社(かいじゅうかすがじんじゃ)」を訪ねました。

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敏達天皇の幸玉宮跡に宿る大津皇子終焉の記憶

敏達天皇の「訳語田幸玉宮」と戒重の地

『日本書紀』敏達天皇の条には、

宮を訳語田に営る。是を幸玉宮(さきたまのみや)と謂ふ

とあります。

この「幸玉宮(さきたまのみや)」は、奈良県桜井市戒重に営まれたと伝えられています。

敏達天皇の「訳語田幸玉宮」の説明板

現在の「戒重春日神社かいじゅうかすがじんじゃ)」の地は、古くは「他田(おさだ)宮」とも呼ばれ、
『延喜式神名帳』に記された「他田坐天照御魂神社(おさだにますあまてるみたまじんじゃ)」の論社の一つでもあります。

すなわちこの場所には、春日神が勧請される以前から、古代の王権と深く関わる祭祀が行われていた可能性があるのです。

現在の戒重春日神社は、国道165号線沿いの市街地の中に鎮座しています。

戒重春日神社の鳥居(境内から)

車の往来が絶えない場所ですが、社殿のたたずまいには、かつてこの地が古代から人々の信仰を集めてきたことを偲ばせるものがあります。
古くは『延喜式』にもその名が見える式内社であり、長い歴史の中で地域の鎮守として崇敬を受けてきました。

戒重春日神社の境内の様子

そして、その「幸玉宮」の跡地こそが、のちに大津皇子の邸宅であったとする伝承へとつながっていきます。

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大津皇子の最期 ― 「訳語田の家」

天武天皇の皇子・大津皇子は、文武両道に優れ、多くの人々から将来を嘱望される存在でした。しかし、その才気と血筋が、天武天皇崩御後の政争に巻き込まれてしまいます。

天武天皇11年10月、大津皇子は謀反の疑いをかけられ、「訳語田(おさだ)の家」で自害を命じられました

その時に詠まれた歌が、よく知られている「大津皇子辞世の句(歌)」です。

百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を
今日のみ見てや 雲隠りなむ

万葉集 巻3-416 大津皇子

その場所がどこであったのか、『日本書紀』には明確な記述がありません。

ただし「訳語田」という地名が、敏達天皇の宮跡と重なることから、後世、人々はその地を「皇子の邸宅跡」と考えるようになりました

もっとも、現地の戒重春日神社には「大津皇子邸跡碑」などの直接的な伝承遺構はなく、「皇子の居館跡」とする伝承は近世以降の推測に基づく面が強いといわれます。

それでも、地名、社名、そして古代王権の記憶が重なり合うこの場所に、皇子の影を感じ取ることができます。

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太田説――もう一つの「訳語田宮」伝承地

戒重春日神社の南東、およそ2キロほど離れた桜井市太田地区にも、「訳語田宮(幸玉宮)」の跡地とする伝承が残っています。

古い地誌(『大和志』など)や式内社の論社関係から、訳語田の所在をこの太田地区にとる説も伝わっており、
現在も学界や地元では戒重説と太田説の二説が並存しています。

この地には古くから、『延喜式神名帳』(927年)に「大和国城上郡 他田坐天照御魂神社(おさだにますあまてるみたまじんじゃ)大社」と記された式内社があったとされ、現在も天照御魂神社としてその名を伝えています。

他田(おさだ)」という地名は「訳語田(をさだ)」と同源とみられ、古代の地名伝承が戒重・太田両方に残されたことで、宮の所在地が二つの候補地として受け継がれることになったのでしょう。

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大伯皇女の慟哭 ― 弟を想う伊勢路の歌

弟・大津皇子の死を知ったのは、伊勢の斎宮に仕えていた大伯皇女(おおくのひめみこ)でした。
彼女は斎宮の職を解かれ、都へと戻る道すがら、伊勢の地を振り返り、悲嘆の思いを込めて一首を詠みます。

神風の 伊勢の国にも あらましを
何しか来けむ 君もあらなくに

万葉集 巻2-163 大伯皇女

「伊勢にいたままでよかったのに、なぜ都へ戻ってきてしまったのだろう。
あなた(弟)ももういないというのに。」

――その慟哭の声が聞こえるようです。

彼女が帰還した先が、まさに訳語田=戒重の地だったとすれば、この地には兄妹の悲しい運命の糸が交差していたことになります

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大津皇子の光と影を偲ぶ地として

大津皇子は、すぐれた詩才と学識で知られ、その作品は『万葉集』や、漢詩集『懐風藻』にもいくつか残されています。

しかし、彼の短い生涯は、政争の渦に呑まれて途絶えました。

戒重春日神社の境内に立つと、敏達天皇の宮が置かれた“王権の光”と、大津皇子の非業の死という“影”が、この地でひとつに重なって見えてきます。

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大津皇子の伝承地をたどる

戒重春日神社を中心に見渡すと、橿原市から桜井市にかけての一帯には、大津皇子の足跡や伝承が点在しています。

大津皇子の辞世の句と大伯皇女の挽歌の歌碑が建つ吉備池廃寺跡
大津皇子の辞世の句と大伯皇女の挽歌の歌碑が建つ吉備池廃寺跡

そのいくつかは「みくるの森」でも紹介してきました。以下に主要なゆかりの地を振り返ってみましょう。

伝承の重なりは、この地域が大津皇子の物語を今に伝える“記憶の地層”であることを示しているのかもしれません。

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まとめ|訳語田に響く大津皇子の記憶をたどって

戒重春日神社の地に立つと、ここが単なる一社ではなく、古代の宮跡伝承と、悲劇の皇子・大津の物語が重なり合う場所であることを改めて感じます。

『日本書紀』に「訳語田の舎(いえ)で死を賜う」と記された一文は、千三百年以上の時を越えて、なお人々の心を揺さぶり続けています。

戒重に伝わる「訳語田宮跡」説、そして太田に残る式内社「他田坐天照御魂神社」の伝承。
それぞれの地が静かに物語るのは、一人の皇子の最期を見届けた土地の記憶です。

橿原から桜井へ――この一帯には、大津皇子ゆかりの碑や遺跡が点在し、御厨子観音のほとり、吉備池廃寺跡、吉備春日神社などにも、その面影が刻まれています。

それらの伝承を線でつなぐと、「訳語田」という名のもとに広がる、古代の王権と悲運の皇子をめぐるひとつの物語が浮かび上がってきます。

戒重の地は、その物語の中心にあった場所。
敏達天皇の宮が築かれ、大津皇子が最期を迎えたと伝えられるこの地には、今も静かに古代の記憶が息づいています。

戒重春日神社へのアクセス

奈良県桜井市戒重557

駐車場はありません。
近鉄・JR桜井駅から徒歩12分です。

敏達天皇の「訳語田宮」跡、そして大津皇子終焉の地と伝わるこの神社について、より詳しく知りたい方は、こちらの記事をご覧ください。

古代王権の舞台となった戒重の地に息づく、宮跡伝承の歴史と信仰の記憶を、写真とともに丁寧に紹介しています。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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