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【古代天皇の宮シリーズ】敏達天皇の訳語田幸玉宮と戒重春日神社(奈良県桜井市)

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古墳や古道、そして古代史の舞台となった場所を歩くのが大好きなみくるです。
奈良県桜井市は、私にとって何度も足を運びたくなる場所のひとつ。万葉の香りが漂う山の辺の道や、古代氏族の足跡を伝える古墳群など、歩くたびに新しい発見があります。

今回は、桜井市戒重に鎮座する「戒重春日神社(かいじゅうかすがじんじゃ)」を訪ねました。この地は、敏達天皇が構えた「訳語田幸玉宮(おさださちたまのみや)」の伝承地の一つです。

戒重春日神社のアイキャッチ画像

古代の天皇の宮の所在地は主に、地名や古文書の記述に基づいて推定されており、決定的な考古学的な証拠が見つかっていない状況です。

古代の天皇の宮を探る旅は、常に「地名の記憶」と「考古学的な空白」の間をたどる、ロマンに満ちた探索です。

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敏達天皇の地から大津皇子の悲劇の舞台へ

序章:幻の宮、訳語田幸玉宮の所在地

古代の天皇の宮は、なぜ次々と場所を変えたのでしょうか?

古代日本では、天皇が代わるごとに宮を移す「天皇一代一宮(いちだい いっきゅう)の原則」がありました。これは、崩御による「穢れ」を避け、新しい天皇の権威を示すための慣習でした。そのため、一つの場所に都が定まる前の奈良盆地は、天皇の宮が次々と営まれた歴史の舞台です。

今回焦点を当てるのは、第30代・敏達天皇(びだつてんのう)が営んだとされる「訳語田幸玉宮(おさださちたまのみや)」です。

訳語田幸玉宮伝承地の解説板

戒重春日神社前に建つ、現地説明板を引用させて頂きます。

訳語田幸玉宮伝承地

訳語田幸玉宮(おさださつたまのみや)は、第30代敏達天皇が営んだ宮です。

記紀によりますと、敏達天皇は、初め百済大井宮を営んでいましたが、占いによりこの地に宮を移したとされています。

先に我が国に伝来した仏教については、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏との対立が表面化していきます。蘇我氏が仏法を広めたせいで疫病が発生したと物部氏から進言を受けた敏達天皇は、仏教を禁止して仏像や仏殿を焼くなどしたと記されています。

また、外交面では、先代の欽明天皇の遺志を継いで、朝鮮半島進出の拠点であった任那の復興を目指して、百済や新羅と外交を続けたと記されています。

百済大井宮の所在については、桜井市のほか、河内長野市、富田林市、北葛城郡広陵町など諸説あります。

敏達天皇は、飛鳥時代初期を担い、父である欽明天皇の宮があった磯城(しき)地域から、再び由緒ある「磐余(いわれ)」の地、現在の桜井市域に宮を構えました。

この記事では、その推定地の一つである桜井市戒重に鎮座する「戒重春日神社(かいじゅうかすがじんじゃ)」を訪ね、宮の痕跡を「地名」と「信仰の痕跡」から読み解いていきます。

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第30代 敏達天皇:仏教受容の嵐を生きた君主

敏達天皇(びだつてんのう)は、6世紀後半(在位572年〜585年)に古代日本を治めた第30代天皇です。父・欽明天皇の時代に伝来した仏教をめぐる激しい対立が国内を揺るがす、飛鳥時代初期の激動期を経験しました。

激化する「崇仏・廃仏」の争い

敏達天皇の治世の最大の特徴は、大豪族である蘇我氏(崇仏派:仏教支持)と物部氏(廃仏派:仏教排斥)の対立が頂点に達したことです。

  • 敏達天皇自身は廃仏派の物部守屋に理解を示したとされ、疫病の流行が仏教のせいであるという進言を受け入れ、排仏運動が発生しました。
  • この争いは、天皇の死後、蘇我氏が物部氏を滅ぼすという内乱に発展し、後の仏教隆盛のきっかけとなります

「幻の宮」訳語田幸玉宮

  • 天皇は、現在の桜井市域にあたる磐余(いわれ)の地に、訳語田幸玉宮(おさだのさちたまのみや)を営みました。
  • この宮の名から、敏達天皇は他田天皇(おさだのきみ)とも呼ばれます。
  • 敏達天皇の宮跡は、確たる遺構が見つかっていない「幻の宮」の一つです。

後継者への影響

敏達天皇の皇后であった額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)は、後に即位し、日本初の女性天皇である推古天皇となります。

推古天皇は甥の聖徳太子と共に、父敏達天皇の時代に否定された仏教を国策として奨励し、本格的な飛鳥文化を開花させることになります

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宮の存在を裏付ける「地名」の証拠

敏達天皇の宮の所在地がなぜ戒重だと有力視されるのか。その鍵は、宮の名である「訳語田(おさだ)」という地名そのものにあります。

敏達天皇の和風諡号(和名)は「他田天皇(おさだのおおきみ)」であり、宮の名も「訳語田幸玉宮(おさださちたまのみや)」と、この土地の名を冠しています

「他田(おさだ)」の痕跡

古代の宮は、その土地に元々あった由緒ある地名を採って営まれました。戒重の地には、現在でもその痕跡が色濃く残っています。

  • 古い庄園名:戒重村一帯は、かつて「他田庄(おさだのしょう)」と呼ばれていました。
  • 小字名::戒重村の小字に残る「和佐田(わさだ)」という地名は、明治時代以前はまさに「他田(おさだ)」と称されていました。
  • 神社の古称::現在の戒重春日神社も、古くは「他田宮(おさだのみや)」と称されていました。

これら地名と神社の古称の連続性こそが、この地が敏達天皇の「訳語田幸玉宮」の所在地であったという確かな証拠です。

神社の起源 — 式内大社の論社

この神社は、後世に春日神が勧請されましたが、『延喜式神名帳』に記載された式内大社「他田坐天照御魂神社(おさだにますあまてるみたまじんじゃ)」の論社の一つとされています。

これは、春日神が来る遥か以前から、「他田」という地名に根ざした古代の特別な神(地主神)の祭祀がここで行われていたことを示唆しています。

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史料比較:『日本書紀』に「磐余」が記されない理由

戒重春日神社の境内に建つ現地説明板には、『扶桑略記』や『帝王編年記』が「磐余訳語田宮」と記していることが示されています。

戒重春日神社の境内に建つ現地説明板

しかし、日本の基本史料である『日本書紀』では、宮号の前に「磐余」は付記されていません

(読み下し)
元年春正月壬子の朔乙卯(きのとう)に、皇太子広幡(ひろはた)の宮に立つ。
この日に、訳語田(をさだ)に遷(うつ)る。宮を訳語田に営(つく)る。是を幸玉宮(さきたまのみや)と謂ふ。

(現代語訳)
元年(欽明天皇崩御の翌年)正月2日、皇太子(のちの敏達天皇)は広幡宮に立たれた。
その日に、訳語田(おさだ)に遷り、そこに宮を営んだ。これを幸玉宮(さきたまのみや)という。

『日本書紀』巻第二十 敏達天皇紀(冒頭部分)

これは、『日本書紀』の記述が間違っているわけではありません。当時の人々にとって、「訳語田」という地名が「磐余」という広域地名の中に含まれていることは自明であったため、敢えて付記する必要がなかったと考えられます。

それに対し、後世に編纂された史書が「磐余」を付記したのは、時代が下るにつれて地名が曖昧になるのを防ぎ、宮の所在地を正確に特定するための配慮であったと推察されます。

どちらの史料からも、敏達天皇の宮が、由緒ある磐余地域に営まれたことが裏付けられます

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悠久の時が流れる 戒重春日神社の概要

現在の戒重春日神社は、春日神を祀る拝殿と本殿が中心です。

戒重春日神社の鳥居

古代の宮の構造を直接見ることはできませんが、境内一帯の穏やかな佇まいが、かつての宮処の雰囲気を感じさせます。

戒重春日神社の手水舎と拝殿

また、境内には主祭神とは別に、琴平社(大物主命)や稲荷社(保食神)といった末社が祀られており、春日信仰と並んで地域の生活に根ざした信仰が深く浸透していることがわかります。

戒重春日神社の境内社

この場所は、後に悲劇の皇子、大津皇子(おおつのみこ)の邸宅跡とも伝えられており、一歩足を踏み入れるだけで、古代の光と影の物語を感じ取ることができるでしょう。

戒重春日神社の境内の様子
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古代の生命力信仰 — 陽石と陰石の痕跡

戒重春日神社が古代の聖地であったことを示す、もう一つの決定的な証拠が境内に残されています。それは、一般的な春日神社では非常に珍しい「陽石(ようせき)」の存在です。

陽石(男性器の象徴)

境内の北東隅の石造物群の中には、明らかに男性器(男根)の形状を持つと指摘される棒状の石造物(陽石)が立っています。

古代の豊穣信仰や道祖神信仰において、陽石は生産・豊穣、そして生命力を象徴する重要なご神体でした。

戒重春日神社の境内に建つ陽石

陰陽の対となる信仰

また、陽石のすぐ近くには、手水鉢のような窪みを持つ割れた石があります。

古代の信仰では、棒状の陽石と、窪みや器の形状を持つ陰石(女性器の象徴)を一対として祀り、陰陽和合による豊かな生産を願う慣習がありました。この窪みを持つ石は、陽石と対になる陰石として機能していた可能性が高いと言えます。

戒重春日神社の境内に建つ手水鉢のような窪みを持つ割れた石

敏達天皇の宮があった神聖なこの地に、春日信仰のような中央の神様とは別に、このような土着の強い生命力信仰が残され、守られ続けたことは、この場所が持つ歴史的な重みと、古代からの霊的な力の強さを物語っています

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信仰の変遷と二つの時代の痕跡

この戒重春日神社には、「古代の陽石信仰」の層に加え、さらに中世近代の歴史が重なっています。

中世の信仰:春日神の勧請

平安時代以降、藤原氏の勢力拡大に伴い、春日大社から春日四所明神がこの地に勧請(分祀)されました。これにより、古い「他田の神」の祭祀に、新しい「春日信仰」が組み合わさり、現在の「戒重春日神社」という形になりました。

近代の信仰:奉納石に刻まれた歴史

さらに興味深いのは、境内に残る「奉納」の文字がある苔むした石碑です。この石には「明治十九年十一月」という年号が刻まれています。

春日神社の境内に建つ「奉納」の文字が苔むした石碑

この石は古代の陽石信仰とは別のもので、明治時代中期に地域の氏子や講(信仰団体)が、神社の維持・再建や参道の整備を行った際の寄進の記録です。この時期の石碑は、明治維新後の神社再編の中で、地域住民が自らの氏神様を大切に守り続けた近代の信仰の証と言えます。

戒重春日神社は、陽石(古代)から春日神(中世)、そして奉納石(近代)へと、三つの異なる時間の層が重なり合い、長くこの地の歴史を見守り続けてきた場所なのです。

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結び:王権と悲劇が交差した場所

戒重春日神社は、その場所に立つだけで、敏達天皇の「訳語田宮」という古代王権の中心であった光の歴史、そして陽石・陰石が語る土着の生命の力、さらに明治の奉納に見る地域の守護といった、三つの時代の信仰の層が重なり合う稀有な場所です。

地名、石、そして神社の由緒を通して、古代日本の宮の姿と信仰の変遷を今に伝える、貴重な歴史の舞台なのです。

実は、この敏達天皇の宮跡は、後に非業の最期を遂げる悲劇の皇子、大津皇子(おおつのみこ)の邸宅となりました。次回は、この光と影が交差した場所で起こった、大津皇子の物語を深く掘り下げていきます。

戒重春日神社へのアクセス

奈良県桜井市戒重557

駐車場はありません。
近鉄・JR桜井駅から徒歩12分です。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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