明日香村の万葉歌碑を歩く【世間の無常を厭ふ歌】川原寺跡前の歌碑(奈良県明日香村)

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明日香と万葉集が好きなみくるです。

犬養万葉記念館で頂いた「明日香村の万葉歌碑を歩く」を片手に万葉歌碑巡り、40基全て見て歩こうと思っています。

今回は「明日香村の万葉歌碑を歩く」26番の明日香村川原に建つ歌碑をご紹介します。犬養孝先生揮毫の歌碑です。

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世間の無常を厭ふ歌二首

世間の繁き仮廬に住み住みて…

今回ご紹介する歌碑は、明日香村の川原寺跡かわらでらあとの前に建っています。

歌碑の向こうに見えるのは、聖徳太子御誕生所と伝わる橘寺たちばなでらです。

歌碑は道を挟んで向かい側にある川原寺跡かわらでらあとのほうを向いて立てられています。

川原寺跡

川原寺跡と橘寺は道を挟んで向かい合った場所にあります。

(題詞)
猒世間無常歌二首

(原文)
世間之 繁借廬尓 住ゝ而
将至國之 多附不知聞

万葉集 巻16-3850 作者未詳

(左注)
右歌二首河原寺之佛堂裏在倭琴面之

(揮毫者)犬養孝/国文学者

(読み下し)
世間の 繁き仮廬に 住み住みて
至らむ国の たづき知らずも

(現代語訳)
世の中という煩わしいことが多い仮の住かに住み続け、死後に行き着く浄土の様子はわからない。

(語義)
至らむ国…至り着きたい国。極楽浄土。
たづき…(方言)方法、様子

題詞「世間の無常をいとふ歌二首(世の中の無常を嘆いて詠まれた二首)」のうちの一首です。

左注は「右の歌二首は、河原寺の仏堂の裏に、倭琴やまとごとおもてに在り」とあります。左注によると、これらの二首の歌は川原寺の仏堂の中の倭琴の表面に記されていたとのことです。

現世という煩わしい仮の世に住みながら極楽浄土への行き方も知らないと嘆いています。

題詞 歌の頭につくタイトルのようなもの。「ここから先は、〇〇さんが作った歌◯首ありますよ」のような意味で使われる。

左注 歌の末につく補足。

『万葉集』は、歌だけではなく題詞と左注の内容を知ることで大まかな内容が分かります。

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生き死にの二つの海を厭はしみ…

もう一首の方もご紹介します。

(原文)
生死之 二海乎 猒見
潮干乃山乎 之努比鶴鴨

万葉集 巻16-3849 作者未詳

(読み下し)
生き死にの 二つの海を いとわはしみ
潮干しほひの山を しのひつるかも

(現代語訳)
生と死の二つの海がいとわしいので潮のない山が慕わしいことだよ

仏教には一切のものは生滅、変化して常住ではないとの教えがありますが、そんな生や死を二つの苦海にたとえ、生死から解脱した山(須弥山)への憧れを詠んでいます。
この時代には、生きて行くことも苦しく、病などで亡くなる者も多かったことから、人生の苦しさや死に対する悲しみから逃れて極楽浄土に行きたいとの願いがこのような歌を詠ませたのでしょう。

この世を仮の住まいとする仏教の認識が、すでにこの時代の人々の間に広がっていたことが窺われます。

飛鳥の四大寺のひとつ「川原寺」

川原寺は天武天皇の時代には、大官大寺・飛鳥寺とともに国の大寺に列せられたお寺です。持統天皇の時代には、四大寺に数えれらえる重要なお寺でした。

創建年代については不明ですが、天智天皇の時代に斉明天皇の飛鳥川原宮の跡地に建立されたとする説が有力です。

二首の歌は川原寺の仏堂の中の倭琴の表面に記されていたのですが、川原寺には伎楽の一団が置かれていて、天武天皇の時代には、新羅の客らをもてなすために「川原寺の伎楽」を筑紫に運んだとされています。

倭琴(和琴)は日本古来の琴です。

和琴 – Wikipedia

どのように万葉歌が書かれていたのか見てみたいと思いました。

発掘調査からは、一塔二金堂式で左右対称の伽藍配置をとっていたことが明らかになり、遺構として28の瑪瑙石(白大理石)の礎石と塔跡が残ります。

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川原の万葉歌碑へのアクセス

奈良県高市郡明日香村川原

川原寺跡に駐車場はありませんが、すぐ近くの「川原ポケットパーク」に駐車可能です。公衆トイレが設置されています。

こちらの記事では、川原寺跡の敷地東側に並ぶ照葉樹の下に鎮座する「龍神社」をご紹介しています。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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