景色を楽しみながら歌碑を訪ね歩き、いにしえの歌人の思いに触れるのが好きなみくるです。
日本最古の道「山の辺の道」には38基もの歌碑が建てられています。全部を見つけたいと思っています。
今回は、観光パンフレット「山の辺の道」に掲載されている中から、35番の長屋王の歌をご紹介します。
うま酒 三輪の祝の 山照らす…
大神神社の長屋王の歌碑
長屋王の歌碑は、大神神社の境内の宝物収蔵庫に向かつて左側の木立の中に建っています。
宝物収蔵庫は、境内マップ11番、祈祷殿の向かいにあります。
長屋王の歌碑です。
(原文)
味酒 三輪乃祝之 山照
秋乃黄葉乃 散莫惜毛
万葉集 巻8-1517 長屋王
(読み下し)
うま酒 三輪の祝の 山照らす
秋の黄葉 散らまく惜しも
(現代語訳)
三輪の神官がまもる山を輝かせる秋の黄葉の、散るのが惜しまれることよ。
長屋王が三輪山の秋の黄葉の散るのを惜しんで詠んだ歌です。
「三輪山」は奈良県桜井市にある山で、白蛇の神である大物主神が棲むとされる神の山です。大神神社は三輪山を御神体としています。
「祝」は神官のことです。『万葉集』の時代には神の山に対して「祝の山」という表現が使われていたのでしょうか。
「味酒」は三輪に懸る枕詞です。味のよい上等な酒を「神酒(みわ)(=神にささげる酒)」にすることから、「神酒(みわ)」と同音の地名「三輪(みわ)」に、また、「三輪山」のある地名「三室(みむろ)」「三諸(みもろ)」などにかかります。
揮毫の堂本印象氏は、昭和期の日本画家です。『東丘社』を主宰。多くの画家を育成し、また多数の社寺の襖絵に筆をとりました。
長屋王と明日香
長屋王は高市皇子の長男です。養老4年(720年)に藤原不比等が亡くなってからは彼に並ぶものがいなくなり、正二位左大臣にまでなりましたが、神亀6年(西暦729年)年2月に謀反の密告により追及され、妻子とともに自殺に追いやられました。
その後、天平6年(735年)に天然痘が大流行し、長屋王亡き後に権勢をふるっていた藤原不比等の4人の子供たち、房前・麻呂・武智麻呂・宇合が次々に病死しました。人々はこれを長屋王のたたりとして怖れたそうです。
長屋王は『万葉集』に歌五首、『懐風藻』に五言詩三首を残しており、自宅で新羅の賓客をもてなす文雅の宴なども開いていました。政治だけでなく文学にも通じた人物であり、生まれ故郷である飛鳥に近い三輪山の黄葉を愛でたひとときがあったようです。
『万葉集』に残っている五首のうち、明日香を詠んだ歌をご紹介します。
(原文)
吾背子我 古家乃里之 明日香庭
乳鳥鳴成 嶋待不得而
万葉集 巻3-268 長屋王
(読み下し)
我が背子が 古家の里の 明日香には
千鳥鳴くなり 島待ちかねて
(現代語訳)
貴方がむかし住んでいた里の明日香には千鳥が鳴いています。荒廃した庭園にまた新しい島が出来るのを待ちかねて。
奈良の京にいる長屋王が、明日香の里の島の宮を思い出して詠んだ歌です。島の宮には、草壁皇子の宮殿がありました。長屋王の正妃である吉備内親王は草壁皇子の娘でした。
こちらの記事では、草壁皇子に仕えていた舎人たちが詠んだ皇子の死を悼む挽歌を、島の宮(嶋宮)を見渡せる丘の景色と共にご紹介しています。
草壁皇子は皇太子になりながらも病のために天皇になることなく若くして亡くなりました。宮殿のあった島の宮もそれ以降はすっかりと廃れてしまったことが長屋王の歌からも想像できます。
酒造り発祥の地「三輪」
酒造りは三輪の地からはじまったといわれています。三輪山は古来から「三諸山(みむろやま)」と呼ばれ、「うま酒みむろの山」と称されるは「みむろ・・実醪」すなわち「酒のもと」の意味で、酒の神様としての信仰からの呼び名であるとも言われています。
そのため毎年11月14日には大神神社に全国中から蔵元・杜氏が集まり「醸造祈願祭(酒まつり)」が行われます。境内では振舞酒も行われ、多くの参拝客・観光客でにぎわい、また醸造祈願祭の後には全国中の蔵元へ杉玉が配られていきます。
こちらの記事では、三輪の酒蔵「今西酒造」さんと三輪を詠んだ『万葉集』の歌をご紹介しています。
『万葉集』にも詠まれるように、三輪山は古来より酒の神様として信仰を集めて来ました。
大神神社へのアクセス
奈良県桜井市三輪1422
無料駐車場あり
JR桜井線(万葉まほろば線)三輪駅より 徒歩5分
JR桜井線・近鉄大阪線 桜井駅 北口2番乗り場より シャトルバスで約20分
こちらの記事では、長屋王の歌碑の隣に建っている倭建命の歌碑をご紹介しています。
最後までお読み頂きありがとうございます。