山の辺の道を石上神宮から奈良まで歩いているみくるです。
前回の記事では、道が大きく分岐する地点に建つ「7番・額田王」の歌碑と、この地で愛された名医・中澤忠七翁の物語をご紹介しました。
三輪山を惜しむ歌声を背にさらに北へ。民家がまばらになり、円照寺(山村御殿)を包む静かな森の気配が近づいてくる中、次に出会うのは「8番」の歌碑。『日本書紀』の編纂を主宰したことでも知られる、舎人親王(とねりしんのう)の一首です。
天理方面から遡る今回の旅では、番号が「7番→8番」と進む不思議な展開になりますが、実はこの順番こそが、この先に待つ「物語」を読み解く最高の演出になっていました。
女帝・元正天皇への敬意を込めて、舎人親王が答える歌
円照寺の森を前に、静寂に包まれる道
7番の分岐から先は、民家もまばらになり、道はより一層静かさを増していきます。

山の辺の道の道標を頼りに歩きます。

7番の歌碑から次に出会う「8番」までは約220m、時間にしてわずか3分ほどの距離です。

道標がある分岐点に建つ、「8番・舎人親王」の歌碑が見えて来ました。


「山人」とは誰か? 謎めいた問いかけの歌
静かな道端に佇む8番の歌碑には、このような歌が刻まれています。


(題詞)
舎人親王の、詔に応へて和へ奉る歌一首
(読み下し)
あしひきの 山に行きけむ 山人の
心も知らず 山人や誰
万葉集 巻20-4294 舎人親王
(かな)
あしひきの やまにゆきけむ やまびとの
こころもしらず やまびとやたれ
(現代語訳)
山へ入って行かれたという、あの山人の心境は私には分かりません。そもそも、その山人とは一体どなたのことなのでしょうか。
この歌は、当時の元正(げんしょう)天皇がこの地へ行幸された際、天皇の詔(みことのり)に応えて捧げられた「和え歌(あえうた)」です。
山の辺の道「奈良道」を守る会さんの資料によると、ここでいう「山人」とは、仙人のような高潔な人物――すなわち元正天皇ご自身を指しています。
歴史書の編纂という大事業を成し遂げた舎人親王が、目の前の美しき女帝を「仙人」になぞらえ、敬意を込めて詠んだ雅な問いかけなのです。
大伴家持へと語り継がれた、1300年前の記憶
この歌は『万葉集』巻20-4294番に収められていますが、そこには非常に興味深い「左注(さちゅう)」が添えられています。
(左注)
右は、天平勝宝五年五月に、大納言藤原朝臣の家に在りし時に、事を奏すに依りて請問せし間に、少主鈴山田史土麻呂、少納言大伴宿祢家持に語りて曰はく「昔この言を聞けり」といひて即ちこの歌を誦めり。
それによれば、この歌は詠まれてから数十年後の天平勝宝五年(753年)、山田史土麻呂(やまだのふひと つちまろ)という人物が、『万葉集』の編纂者である大伴家持に「昔、こんな素敵な歌を聞いたことがあるよ」と語り聞かせたものだそうです。
舎人親王がこの山村の地で詠んだ歌が、時を越えて家持の耳に届き、記録されたことで現代に伝わった……。
歌を愛した人々のリレーがあったからこそ、私たちは今、この場所で歴史の息吹を感じることができるのですね。
逆から辿るからこそ味わえる「アンサーソング」の妙
通常、『万葉集』では元正天皇の歌が先にあり、舎人親王の歌が後に続きます。しかし、南から遡って歩いている私は、まずお供である舎人親王の「答えの歌」に出会いました。
「山人(天皇)はどこへ行かれたのか。その心は?」という舎人親王の問いかけ。その本当の意味と、主役である元正天皇の歌は、この先の「6番」の歌碑へと持ち越されます。

まるで物語の伏線を先に回収していくような、逆走ルートならではのワクワク感。
1300年前の「山村」の地で、かつての人々が語り継いだ言葉を自分自身で拾い集めていくような、贅沢な旅のひとときでした。
結び:いよいよ「山人」の待つ場所へ
案内図を確認し、舎人親王の粋な問いかけと、それを未来へ繋いだ人々の想いを反芻しながら歩く道。 次は、いよいよその問いの主、そして「山人」ご本人である元正天皇の「6番」の歌碑を目指します。

奈良道の旅は、いよいよ物語の核心へと近づいていきます。
奈良市山町の舎人親王の歌碑へのアクセス
奈良県奈良市山町630
最後までお読み頂きありがとうございます。



