天理市観光協会さんのサイトを見ながら、おススメの観光スポット巡りをしているみくるです。
前回は「はにわの里コース」から、天理市櫟本町にある「櫟本高塚公園」をご紹介しました。
今回は、発掘調査の後に整備されて公園になった「櫟本高塚遺跡」をご紹介します。
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櫟本高塚公園は、古代の豪族「ワニ(和珥・和爾)氏」にまつわる、櫟本高塚遺跡を保存し、周辺一帯を公園として活用するために整備されました。
ワニ氏の里「櫟本高塚遺跡」
ワニ氏の祖先が眠る東大寺山古墳群
天理の北部、櫟本町から和爾町は、古代豪族「ワニ(和珥・和爾)氏」の本拠地が所在した地域です。『日本書紀』や『古事記』には、この地域を「ワニ坂」と呼び、大和朝廷に仕えたワニ氏の祖先が武力にすぐれた集団であったことを記載しています。
和爾町の地名はそうした古代豪族の名称が地名に名残を留めたものと思われます。
この櫟本高塚公園の一帯は、通称「東大寺山」と呼ばれています。東大寺山の丘陵には「東大寺山古墳」「和爾下神社古墳」など古墳時代に築かれた大型の前方後円墳があります。考古学では、総称して「東大寺山古墳群」と呼んでいますが、ワニ氏の祖先にあたる有力人物の墓と考えられます。
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こちらの記事では、和爾下神社古墳の上に建つ「和爾下神社」をご紹介しています。
櫟本高塚遺跡の発掘調査
昭和57年に行われた発掘調査で、6世紀後半(古墳時代後期)に山の中腹を切り開いて造った広い平坦地が見つかりました。
上方の斜面には竪穴住居が2棟、平坦地の中央北寄りには特殊な建物が1棟、平坦面の南東側には斜面を掘り込んで造成した方形の檀と柱列がありました。
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特殊な建物の北側斜面では高杯(供物を載せる土器)の破片が散乱した状態で多数見つかりました。
この平坦面は人々が集まる広場で、特殊な建物は祠か社、そして高杯は祭祀に使用された後に投棄されたもので、盆地を見下ろすような丘陵上に造られた古代の祭祀場ではないかと思われます。
ワニ氏の祭祀場跡
発掘調査で見つかった祭祀場は、立地からワニ氏が営んだものとみられます。
この祭祀場が位置するのは東大寺山丘陵ですが、古墳時代、この丘陵には古墳しか見つかっていません。祖霊の眠る神聖な場所であったとみられ、この祭祀場では祖霊を敬い、誓いを立て、あるいは報告をするなど、ワニ氏にとって重要な儀式が行われていたものと考えられます。
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周りの環境
櫟本高塚遺跡は東大寺山丘陵の北側斜面に所在し、元々は竹林でした。発掘調査の結果、遺構を保存して公園として活用することとなり、グラウンドや散策路、休憩所、大型の遊具、トイレなどが整備されました。
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遺跡からは奈良盆地の北側から西側が良く見え、北側の丘陵上にある和爾の集落は全体を望むことができます。
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遺跡が所在する丘陵の南西部には東大寺山古墳(古墳時代前期の前方後円墳)があり、中国・後漢末の年号を刻んだ鉄刀が出土しています。
南西部に見える茂みが東大寺山古墳です。
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古代豪族ワニ氏とは
ワニ(和爾・和珥・丸爾)氏は櫟本一帯を本拠地としていた古代豪族で、大和の有力な豪族として応神天皇以後7代(応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達)の天皇に后妃を送り出したとされています。
葛城氏に並ぶ勢力を誇った大豪族ですが、政治的にはあまり表に出ておらず、一般的にその名は知られていません。しかし、天皇家との結びつきは強く、王権内では最も有力な豪族でした。
ワニ氏の始祖は、孝昭天皇の皇子で孝安天皇の兄でもある天足彦国押人命とされ、同族には16もの氏族がいたとされています。
6世紀頃に春日氏、小野朝臣、粟田朝臣、柿本朝臣、大宅真人、櫟井朝臣など別姓を名乗るころから和珥春日氏が和珥氏の中心となり、そのころに和珥春日氏から春日氏に改姓すると見る説があります。春日氏となって後に蘇我氏が勢力を伸ばすと、春日氏は急速に政治勢力として衰退し表面から消えました。
他の分岐したワニ氏はその後もこの地に居住し、粟田真人、小野妹子、柿本人麻呂などの学者や文人を輩出しています。この地域に古代の寺院や廃寺が多いのも、別れた一族がそれぞれに建てたからと見られています。
櫟本地域には、今でもワニ氏との関わりを伝える場所や遺跡がたくさんありますが、その中心は今もその名前が残る「和爾町」周辺であったと考えられています。
こちらの記事では、柿本人麻呂の遺骨を葬ったとされる「柿本寺跡」をご紹介しています。柿本人麻呂がワニ氏の出身だったことは、「はにわの里」の散策を通して知りました。
櫟本高塚公園へのアクセス
奈良県天理市櫟本町2533-4
JR櫟本駅より徒歩約15分
無料駐車場あり
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こちらの記事では、ワニ氏の流れを汲む人物の墓という説がある大型方墳「ハミ塚古墳」をご紹介しています。
最後までお読み頂きありがとうございます。