明日香村と飛鳥時代が好きなみくるです。
古宮遺跡をご紹介した記事で、
日本書紀によると593年(崇峻5年)、豊浦宮(とゆらのみや)で即位した推古天皇は、603年(推古11年)に新宮として小墾田宮(おはりだのみや)を造営しここに居を移したといいます。
推古天皇が豊浦宮で即位した593年を飛鳥時代のはじまりとします。
【飛鳥時代の始まりの地】明日香村豊浦【古宮遺跡(古宮土壇)】 | みくるの森 (mikurunurie.com)
と書いた、かつて豊浦宮が置かれた豊浦寺跡(向原寺)をご紹介します。
飛鳥時代のはじまりの地【豊浦宮】
豊浦寺跡(向原寺)
奈良県明日香村の甘樫丘の北西麓の豊浦(とようら)に向原寺(こうげんじ)というお寺があります。
向原寺の建つ地に、かつては豊浦寺がありました。
豊浦寺は日本で最初に建てられたお寺です。
向原寺の前に豊浦寺跡の石碑が建っています。
『日本書紀』に、欽明13年(552年)に百済の聖明王から金銅の釈迦仏や経典が献上されたことが書かれています。
一説では、この時を「仏教公伝」とします。
天皇は、「西の国から伝わった仏の顔は、端麗の美を備え、まだ見たこともないものである。これを祀るべきかどうか」
といわれた。蘇我大臣稲目宿禰が申すのに、
「西の国の諸国は、皆、礼拝しています。豊秋の日本だけがそれに背くべきでしょうか」(中略)
天皇はいわれた。
「それでは願人の稲目宿禰に授けて、試しに礼拝させてみよう」大臣は跪き受けて喜んだ。
日本書紀・日本語訳「第十九巻 欽明天皇」 | 古代日本まとめ (kodainippon.com)
小墾田の家に安置し、ねんごろに仏道を修めるよすがとした。
向原の家を清めて寺とした。
向原寺(こうげんじ)の向原は(むくはら)とも読みます。
蘇我稲目が清めて寺とした向原の家が豊浦寺の始まりとされています。
【飛鳥時代の始まりの地】推古天皇の豊浦宮
『日本書紀』によると、推古天皇は崇峻5年(593年)に豊浦宮(とゆらのみや)で即位されました。
豊浦宮は飛鳥地域に初めて置かれた宮です。
豊浦宮が置かれた593年を飛鳥時代の始まりとします。
593年、推古天皇豊浦宮にて即位する。
以来100年間、歴代の天皇は宮を飛鳥の地に集中的に営み、飛鳥は政治の中心地となり、大陸の先進文化を摂取し斬新・華麗な飛鳥文化が花開いた。
603年、北に接して小墾田宮をつくり、豊浦宮は蘇我氏に賜って豊浦寺になったと伝えられる。
推古天皇豊浦宮跡・豊浦寺跡の説明板
豊浦寺は603年に、推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に移った後に、建立されたわけなのですが、それに先立って蘇我稲目が向原の家を清めて寺としたのが始まりとされています。
百済より仏教が初めて公に伝わった時に、賜った仏像を祀るために建てられたお寺なので、豊浦寺は日本で最初に建てられたお寺ということになります。
飛鳥寺は日本最古のお寺といわれますが、それは最古の本格寺院ということです。
豊浦寺は舒明天皇の時には塔婆が建立され、持統天皇のときには、飛鳥五大寺の一つでした。
平城遷都の後も変わらず盛えましたが、平安時代にはかなり寺運が傾き、衰退していきました。
現在は、江戸時代に建立された向原寺(浄土真宗本願寺派)があり、その後を引き継いでいるといわれています。
向原寺周辺には豊浦寺の遺構が残っていて、1957年以降発掘調査が実施されて、塔、金堂、講堂の跡が検出されています。
向原寺のすぐ南の集会所のあたりにも建物跡があり、これが金堂跡と推定されます。
飛鳥京絵図で見る豊浦宮
飛鳥京絵図に②推古天皇 豊浦宮即位(592)と書かれていて、大体の位置関係が分かります。
推古天皇が603年に移った小墾田宮の場所ははっきりと分かっていませんが、豊浦宮より北方の雷丘周辺にあったのではないかと考えられています。
難波池は日本書紀に記述のある【難波の堀江】
百済の聖明王から朝廷に献上された金銅の釈迦仏は、蘇我稲目が向原の家を清めて寺として祀っていました。
しかし、その後疫病が流行した時、災害は仏教崇拝によるという理由で、廃仏派の物部氏により仏像は難波の堀江に捨てられ、寺は焼却されたといいます。
万葉人が最も愛した【萩の花】旧友と豊浦寺で宴げせる歌
向原寺の前に丹比真人國人の万葉歌碑が建っていました。
明日香川 行き廻る岡の 秋萩は
今日降る雨に 散りか過ぎなむ
巻8-1557 丹比真人國人
万葉人が最も愛した【萩の花】旧友と豊浦寺で宴げせる歌【丹比真人國人】 | みくるの森 (mikurunurie.com)
向原寺(豊浦寺跡)のアクセス
奈良県高市郡明日香村豊浦630
古宮遺跡(古宮土壇)のある豊浦駐車場より徒歩4分です。
最後までお読み頂きありがとうございます。