マップを見ながら史跡を巡るのが好きなみくるです。
今回は橿原市観光協会さんの観光パンフレット「橿原まちあるきまっぷ~ 藤原宮跡周辺を歩く」に掲載されている「特別史跡 本薬師寺跡」をご紹介します。
➡橿原市の史跡を巡る【藤原宮跡周辺を歩く】畝傍御陵前駅~本薬師寺跡~藤原宮跡
特別史跡 本薬師寺跡
特別史跡 本薬師寺跡
「薬師寺」は藤原京右京八条三坊に位置していた寺院です。平城京遷都で薬師寺が西ノ京に移ると、西ノ京の「薬師寺」と区別するために「本薬師寺」と呼ばれるようになりました。
現在は、橿原市城殿町の医王院の境内に、伽藍の遺構のうち金堂の礎石の一部が残ります。また、東塔や西塔の土壇および心礎などの礎石が周囲の水田に残存し、本薬師寺跡として特別史跡に指定されています。
特別史跡は、史跡のうち特に重要なものとみなされ、日本文化の象徴と評価されるもので、63件が指定されています。
薬師寺の建立と歴史
『日本書紀』によると、薬師寺は天武天皇が天武天皇9年(680年)に皇后鵜野讚良皇女(のちの持統天皇)の病気平癒のために発願されました。
持統天皇2年(688年)には薬師寺で無遮大会が催されており、その頃には寺院としての体裁は整っていたとみられています。
文武天皇2年(689年)には薬師寺の工作がほぼ完了し、僧を住まわせたとの記述が見られるので(『続日本紀』)、この年にはほぼ完成したものと考えられます。
東塔の建築部材とされる木材の伐採が年輪年代測定により持統天皇9年(695年)であったことが確認され、伽藍が完成したとされる年代と一致します。大宝元年(701年)6月に、造薬師寺司の任命を記していることから、造営は8世紀まで行われていたと考えられています。
『薬師寺縁起』には、養老2年、平城京に伽藍を移すとあり、従来は本薬師寺の伽藍を西ノ京の薬師寺に移築したとする説が有力でしたが、今日では伽藍・本尊とも、本薬師寺からそのまま移されたものではないとする説が有力です。
その後も、11世紀初頭まで存続していたという結果が発掘調査により得られています。
伽藍配置
寺域は、藤原京右京八条三坊の全域を占める広大なものでした。
伽藍は、薬師寺式伽藍配置であり、中央に金堂があって、その手前に左右対称の東塔と西塔を配置し、その前面(南)にある中門の両側から、回廊が金堂の背面(北)にある講堂の両側まで取り囲んでいました。
「橿原市藤原京資料室」に本薬師寺跡の航空写真が展示されていました。
藤原京の中央には都の中心となる藤原宮があり、左京と右京には国の大寺である「大官大寺」と「本薬師寺」が建てられました。
金堂
現在の金堂跡は、周囲の水田より1メートル余り高くなっています。
東西36メートル、南北29メートルの土壇に、花崗岩による方形座を備えた19個の礎石が残ります。
そのうちの4個は医王院の本堂や庫裏に用いられています。
医王院の本堂横に「元薬師寺跡」と書かれた石碑が建っています。西の京の薬師寺に移築されたと考えられていた時は「元薬師寺跡」と呼ばれてたように思うのですが、定かではありません。
発掘調査によると、基壇は東西29.5メートル、南北18.2メートルとされ、西ノ京の薬師寺と規模は同じです。また同様に前面3か所、背面1か所に階段を備えていました。
⇩西の京の薬師寺の金堂です。
このような建物がここにも建っていたのかもしれません。
東塔
東塔の基壇は、一辺14.2メートル、高さ1.45メートルで、西ノ京の薬師寺とほぼ同じ規模であったことがわかっています。
中心の心礎および四天柱4個と側柱12個のうち11個の礎石、計16個が残存します。
東西2.1メートル、南北1.7メートルの花崗岩の心礎に舎利孔があります。
⇩西の京の薬師寺の中門と東塔です。
このような光景がここにも広がっていたのかもしれないと思うと、ワクワクします。
西塔
西塔の基壇の規模は、一辺が約13.5メートル、高さ1.6メートルであったとされます。
花崗岩の心礎が残存し、その中央には直径39センチメートル、高さ10センチメートルの凸部があり、東塔および西ノ京の薬師寺の塔の心礎とは異なります。
この西塔跡から、西ノ京の薬師寺の創建瓦が大量に出土したことにより、本薬師寺の西塔は、平城京に薬師寺が移った後に改めて建立された可能性があげられています。
南門
2024年の発掘調査で、寺の正門にあたる南門の隅の部分が見つかりました。
南門は礎石の大きさなどから立派な構造だったと考えられ、調査担当者さんは「国家主導で造られた寺院にふさわしい門が存在していたことがはっきりした」とされています。
2024年3月2日に現地見学会が行われました。詳しい資料が橿原市の公式サイト(本薬師寺跡見学会資料)に公開されていますので、ご参考にされて下さい。
藤原京の二大官寺「大官大寺と薬師寺」
薬師寺は官寺(国が建立した寺)として、中国式都城の都市計画のもと、藤原京の右京に建立されており、同じく左京に建立された官寺である大官大寺とともに、日本で初めて「国家二大寺制」が導入されたことの物証です。
いまはただ土壇と礎石が残るのみですが、その背景には畝傍山が望め、その光景はいかにも天皇が発願した官寺跡にふさわしいものです。
ホテイアオイの名所
本薬師寺跡はまた、ホテイアオイの名所として知られ、写真愛好家の方に人気の場所でした。私も写真を撮りに出かけたことがあります。
こちらの写真は2016年9月4日に撮影したものです。
1996年から地元農家などで結成された「城殿町霜月会」が周辺の休耕田にホテイアオイの植え付けを始められ、例年8月下旬から9月下旬が見頃となっていました。
東塔の基壇とホテイアオイと畝傍山との取り合わせが、幻想的でたいそう綺麗でした。
しかし、残念ながら、2022年度から橿原市は財政難のためホテイアオイの植え付け事業を廃止されました。財政が改善すれば再開を検討したいとされてていますが、めどは立っていないそうです。
令和6年度(2024年)のホテイアオイの植え付け事業が中止になったと、橿原市の公式サイトに記載があります(本薬師寺跡のホテイアオイの植付け事業の中止について)。
再開されることを願います。
耳成山公園のホテイアオイ
こちらの記事では、古池に浮かぶホテイアオイと耳成山の美しい山容が望める耳成山公園をご紹介しています。橿原市のホテイアオイの隠れた名所です。
本薬師寺跡へのアクセス
奈良県橿原市城殿町
駐車場はありません。
こちらの記事では、本薬師寺跡の前に建つ万葉歌碑をご紹介しています。
大宰府の帥(長官)として赴任していた大伴旅人が、忘れ草(ヤブカンゾウ)を身につけると憂苦を忘れるという中国の故事にならい、香具山のある故郷飛鳥への思いを断ち切ること詠んだ歌です。
最後までお読み頂きありがとうございます。