マップを見ながら古代の史跡をめぐるのが好きなみくるです。
今回は橿原市観光協会さんの観光パンフレット「橿原まちあるきまっぷ~石川池周辺を歩く」に掲載されている「丈六(軽の巷」をご紹介します。
➡橿原市の史跡を巡る【石川池周辺を歩く】橿原神宮前駅~石川池(孝元天皇陵)
丈六(軽の巷)の「軽市」
近鉄橿原神宮駅の東側は、古代飛鳥の時代に「軽(かる)」と呼ばれ、南北に貫く下ツ道(国道169号線)と東西に走る山田道(県道124号)が交わる交通の要衝でした。
「軽の巷」と呼ばれ、「軽市」が設けられ賑わいをみせました。
古代の市
市は朝廷が必要とする物資を調達する場であるほか、都の住人が物資を売買する場でもありました。刑罰や祭祀の場としても利用されました。
古代の市には次のようなものがあります。
- 軽市(橿原市大軽町・石川町付近)
- 海石榴市(桜井市金屋付近)
- 藤原京東市・西市(橿原市)
清少納言の『枕草子』十四段には、辰の市(平城京東市)とともに、椿市・おふさの市・飛鳥の市がとりあげられています。
軽市を詠んだ万葉歌
『万葉集』に収録された柿本人麻呂の歌(巻2-207)では軽に住む亡き妻が軽の市に通っていたことを詠み込んでいて、人々の集う場であったことが分かります。
➡万葉歌碑巡り【柿本人麻呂の泣血哀慟歌】牟佐坐神社(橿原市見瀬町)
市は祭祀の場としても利用されたことも、『万葉集』から伺い知れます。
「橿原まちあるきまっぷ」でも紹介されている「春日神社(軽島豊明宮跡)」に建っている歌碑です。
天飛ぶや 軽の杜の 斎槻
幾世まであらむ 隠妻そも
巻11-2656 作者不詳
この歌から、軽市にはケヤキ(槻)があったことが推察されています。巨樹は神の依り代ともなったことから、天界と俗界の境界領域でもあったと考えられます。
古代史の舞台となった「軽」
『日本書紀』や『古事記』には「軽」の地名が入った宮が記されています。
- 孝元天皇の「軽境岡宮」
- 威徳天皇の「軽曲峡宮」
- 応神天皇の「軽島明宮」
➡橿原市の史跡を巡る【春日神社(応神天皇の軽島豊明宮跡)】~石川池周辺を歩くその2
さらには、孝徳天皇も文武天皇も「軽皇子」と呼ばれていましたし、允恭天皇の皇子は「木梨軽皇子」と呼ばれていました。
『日本書紀』推古天皇20年(612年)の条には、推古天皇が母で欽明天皇妃の堅塩姫を檜隈陵へ改葬するにあたり、軽の街で盛大に儀式を行ったことが記されています。
こういったことから、「軽」という場所が古代の王権にとって大変重要な場所だったことを、伺い知ることができます。
「軽」にまつわる悲恋物語
「橿原まちあるきまっぷ~石川池周辺を歩く」に掲載されている「軽にまつわる悲恋物語」をご紹介します。
木梨軽皇子・軽大娘皇女は同母兄弟でした。その二人がタブーとされていた禁断の恋に落ち、軽皇子は允恭天皇の皇子でしたが、世間の非難を浴び、やがて失脚し伊予国に流されました。
その軽皇子が詠んだ歌が『古事記』にあります。
天飛む 軽の嬢子 甚泣かば 人知りぬべみ
幡舎の山の 鳩の 下泣きに泣く
(現代語訳)
天翔ける軽の嬢子よ。あまり泣くと人に知れてしまう。波佐の山の鳩のように忍ばせて泣いている。
※天翔けるは、軽(かる)と音が似ていることから、空を飛ぶ雁(かり)に喩えたものです。
古代史の舞台となった昔の面影は残っていませんが、ここで繰り広げられた古人たちの営みを偲びつつ散策したい場所です。
丈六(軽の巷)へのアクセス
奈良県橿原市石川町
近鉄橿原神宮前駅下車
丈六の交差点までは徒歩2分です。
こちらの記事で石川池周辺の史跡をまとめてご紹介しています。
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