里中満智子さんの『天上の虹』を読んで、古代史と万葉集に興味を持ったみくるです。
『天上の虹』では、大津皇子とその正妃である山辺皇女、さらに姉の大伯皇女が、とても印象的に描かれています。皇子の悲しい最期や、皇女たちの深い想いが物語を通して生き生きと伝わり、読んでいるだけで古代の息づかいや宮廷の情景が浮かんできます。
奈良県橿原市東池尻町に広がる磐余池の有力な推定地「東池尻・池之内遺跡」は、まさにその物語の舞台を思い描くのにぴったりの場所です。山辺皇女が皇子を慕って身を投じ、大伯皇女が挽歌を詠んだという悲劇も、この静かな田園風景の中に深く刻まれているかのようです。

『天上の虹』の世界をより身近に感じたい方は、ぜひ現地を訪れてみてください。古代の宮廷や儀式の舞台となった池の跡や大津皇子の歌碑の前に立ち、皇女たちの想いを追体験することで、文字だけでは味わえない古代のロマンを肌で感じられます。
この後の記事では、大津皇子の歌碑や、磐余池の有力な推定地である東池尻・池之内遺跡を巡る散策の楽しみ方をご紹介していきます。
大津皇子の辞世の句と大伯皇女の挽歌
古代に作られた幻の池「磐余池」
大津皇子の時代、宮廷や儀式の舞台として重要だったのが「磐余池(いわれのいけ)」です。
『日本書紀』や『古事記』にも登場するこの池は、かつて広大な水面をたたえ、王権の象徴とも言える存在でした。しかし、長い年月の間に形を変え、今では正確な場所は特定されていません。
現代の奈良県橿原市東池尻町に広がる「東池尻・池之内遺跡(ひがしいけじり・いけのうちいせき)」は、磐余池の有力な推定地とされる場所です。大津皇子の歌碑とともに、古代の風景を思い描きながら散策できる貴重なスポットとして注目されています。

大津皇子の辞世の句「百伝う 磐余の池に 鳴く鴨を・・・」
橿原市東池尻町の磐余池があったとされる場所に写真家の入江泰吉氏揮毫の歌碑が建っています。
大津皇子の辞世の句です。


(題詞)
大津皇子の死を被(たまはり)し時に、磐余の池の陂(つつみ)にして涕(なみだ)を流して作らす歌一首
(原文)
百傳 磐余池尓 鳴鴨乎
今日耳見哉 雲隠去牟
(読み下し)
百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を
今日のみ見てや 雲隠りなむ
巻3-416 大津皇子
揮毫:入江泰吉(写真家)
(現代語訳)
磐余の池に鳴く鴨を見ることも今日を限りとして、私は雲の彼方に去ってしまうのだろうか。
大津皇子は天武天皇の皇子ですが、天皇崩御の直後に謀反の罪で捉えられ、持統天皇から死を命じられました。
池の北方の邸宅で24歳の命を絶ちます。
その時に詠まれた歌で、鴨と雲に無念の気持ちを託した辞世の句です。

磐余池は川をせき止めるダム式の人工池としては国内最古のものになります。
今は池は無く田畑が広がる長閑な風景、ここで自ら絞首されたのかと思うとしみじみします。

磐余池にまつわる悲劇 ― 山辺皇女の物語
里中満智子さんの『天上の虹』では、大津皇子の正妃である山辺皇女(やまべのひめみこ)は、夫・皇子の悲しい最期を知った後、この池に身を投じたと描かれています。
『日本書紀』には、
妃皇女山邊、被髮徒跣、奔赴殉焉、見者皆歔欷。
妃の皇女山辺(=山辺皇女)は髪を振り乱して、裸足で走って行き、殉死しました。
持統天皇(二)臨朝称制・大津皇子の謀反と死、その人物像 (nihonsinwa.com)
見た人は皆、嘆きました。
と短く記されているだけなので、どうように殉死されたのかは分かりません。
ですが、当時の磐余池は、宮廷や人々の暮らしと密接に結びついた場所だったので、大津皇子の辞世の句と共に、山辺皇女の悲しい物語も、磐余池と一緒に語り継がれたのかもしれません。
興味深いのは、この場所の地名「東池尻(ひがしいけじり)」が、発掘調査で池の存在が明らかになる前から使われていたことです。池が形を変えたあとも、「池の端」を意味する名前として残ったことから、磐余池の存在や人々の記憶が古代から語り継がれていたことがうかがえます。
当時の池は広大で深く、宮廷や人々の暮らしと密接に結びついた場所でした。その静かな水面に映る空を思いながら、山辺皇女の悲しみや忠誠心を想像すると、古代の人々の生きた息づかいがひしひしと伝わってくるようです。
この物語は、単なる歴史の記録ではなく、磐余池という場所の重要性や、人々の心に残る出来事を今に伝える証でもあります。
大伯皇女が大津皇子の死を嘆き悲しみ詠んだ歌
大津皇子は二上山に葬られたと万葉集は伝えます。
右端の雌岳と雄岳とが連なる双峰の山が二上山です。

『万葉集』に収められている大伯皇女(大津皇子の姉)の歌六首全てが大津皇子を想う歌です。
内二首は大津皇子が二上山に葬られる時に哀しみ悼んで詠んだ歌です。
(読み下し)
うつそみの 人にある我や 明日よりは
二上山を 弟背と我が見む
万葉集 巻2-165 大伯皇女
(現代語訳)
一人この世に生き続ける私は、明日からは弟の眠るあの二上山を弟として見続けよう

こちらの大伯皇女の歌碑は、桜井市の「吉備池廃寺跡」に建っています。
(読み下し)
磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど
見すべき君が ありといはなくに
万葉集 巻2-166 大伯皇女
(現代語訳)
磯のほとりに生えている馬酔木を折りたいが、見せるべき相手であるあなたがいるわけではないのに
皇子の無念さと深い悲しみが伝わり胸を打たれます。
二上山は藤原京のあった橿原市に住む私も毎日目にする山です。
古来より様々な思いで眺めて来られたこの美しい山を、私も様々な思いで眺めています。
古代に作られた幻の池「磐余の池」を歩く
大津皇子の歌碑を訪れたあと、少し足を伸ばしてみませんか。橿原市東池尻町に広がる東池尻・池之内遺跡は、古代の磐余池の有力な推定地とされる場所です。

堰堤跡などの遺構から、かつて宮廷や儀式の舞台となった池の姿を思い描くことができ、文字通り「幻の池」の雰囲気を味わえます。
大津皇子の歌碑に魅了されたファンなら、ぜひこの遺跡も訪れてみてください。当時の風景を想像しながら歩くことで、歌碑だけでは味わえない古代の息づかいをさらに身近に感じられます。
吉備池廃寺跡と大津皇子の邸宅跡を巡る
奈良県桜井市の「吉備池廃寺跡」の近くには、大津皇子が生前に暮らした邸宅跡もあったと伝わります。池のほとりで辞世の歌を詠んだ皇子の姿を思い浮かべると、当時の景色がまるで目の前に広がるようです。
池のほとりから二上山を眺めると、若き皇子が日々の営みを過ごしていた情景や、大伯皇女との深い絆が思い浮かびます。

吉備池廃寺跡の歌碑や百済大寺跡を巡ると、万葉集に詠まれた皇族たちの感情や物語が、現地の景観と重なり合い、より立体的に感じられます。大津皇子ファンにとって、辞世の歌と邸宅跡をめぐる散策は、まさに歴史の息遣いを肌で感じる特別な体験です。
ぜひ、こちらの記事で吉備池廃寺跡の歌碑や百済大寺跡の歴史、皇子と姉の想いに触れてみてくださいね。
橿原の万葉歌碑めぐり
こちらの記事では、橿原市の万葉歌碑をまとめてご紹介しています。
磐余池へのアクセス
奈良県橿原市東池尻町
近くに御厨子観音妙法寺があり、境内から磐余の池を見下ろせます。

美しいお寺なので、ぜひ合わせてお参りされて下さい。
駐車場があります。
大津皇子の歌碑はのぼりの連なる参道の入口の近くに建っています。

『万葉集』の世界を深く学べる本
里中満智子さんの『天上の虹」では、大津皇子を裏切ったとされる川島皇子の苦悩も濃く描かれています。
⇩大津皇子が謀反の意ありとされ、引き立てられる場面です。

川島皇子が実際のところ、どう考えて行動したのかわからないけれど、
里中満智子さんに聞く万葉集の魅力 – ほぼ日刊イトイ新聞 (1101.com)
きっと人と人のつながりのなかで動いている。
いい奴とか悪い奴とか、ひとくちにいえる人なんていないと思うんです。
しがらみと理想と、自分の実力。
そうしたものを秤にかけて、家族の事情も抱えながら考える。
それは、きっと私たちと同じです。
そういう感覚で読むと万葉集って、とても近いものになる。
1000年くらいで、人ってそう変わりませんから、わからない世界じゃないんですよ。
人はそんな簡単じゃない、それは現代に生きる私たちも、万葉の時代の人たちも同じ。
里中満智子さんは深い気づきを下さいます。
大津皇子が磐余の池で辞世の句を詠む場面は、講談社文庫版『天上の虹』6巻に描かれています。
最後までお読み頂きありがとうございます。