里中満智子さんの『天上の虹』がきっかけで、古代史と『万葉集』が好きになったみくるです。
今回は、『天上の虹』で魅力的に描かれている柿本人麻呂が詠んだ挽歌をご紹介します。
柿本人麻呂の挽歌
草壁皇子の死を悼んで詠んだ歌
『万葉集』には多くの柿本人麻呂の歌が収められていますが、中でも高市皇子や草壁皇子らの死を悼む挽歌が特に心に沁みます。
久かたの 天見るごとく 仰ぎ見し
皇子の御門の 荒れまく惜しも
万葉集 巻2-167 柿本人麻呂
この歌は草壁皇子の死を悼んで詠まれた柿本人麻呂の長歌につけられた二首の反歌のうちのひとつです。
(現代語訳)
はるか天を見るように仰ぎ見た皇子の御門の荒れてゆくだろうことが惜しくて仕方がない
その柿本人麻呂が妻の死を悲しんで詠んだ歌が刻まれた歌碑があると知り、見に行って来ました。
柿本人麻呂の泣血哀慟歌
歌碑は、奈良県橿原市見瀬町の牟佐坐神社の境内の鳥居を潜って左側にありました。
歌碑にあるのは、題詞に「妻死りし後に泣血ち哀慟みて作れる歌」とある長歌です。
天飛ぶや 軽の道は 我妹子が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど やまず行かば 人目を多み 数多く行かば 人知りぬべみ
狭根葛 後も逢はむと 大船の 思ひ憑みて 玉かぎる 磐垣淵の 隠りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れぬるが如 照る月の 雲隠る如 沖つ藻の 靡きし妹は 黄葉の 過ぎて去にきと 玉梓の 使の言へば 梓弓 声に聞きて 言はむ術 為むすべ知らに 声のみを 聞きてあり得ねば
わが恋ふる 千重の一重も 慰もる 情もありやと 吾妹子が 止まず出で見し 軽の市に わが立ち聞けば 玉襷 畝傍の山に 鳴く鳥のも聞こえず 玉鉾の 道行く人も 一人だに
似てし行かねば すべをなみ 妹が名喚びて 袖そ振りつる
万葉集 巻2-207 柿本人麻呂
揮毫 昆布富明(書家)
(現代語訳)
空を飛ぶように軽い軽の路は、僕の妻の住む里なので何度でも見たいのだけれど、止むことなく人の行き交うので人目も多く、何度も行くと人に知られてしまうので、
さね葛のからむように後で逢おうと大船のような期待をもつ気持ちで、玉が石に囲まれた淵に隠れるように恋していたのに、太陽が西に渡って暮れていくように、照る月が雲に隠れる如く、沖の藻が靡くように靡いた妻は黄葉の散るように亡くなってしまったと玉梓を携えた使いのものが伝えてきた。
梓弓の音を聞くように知らせを聞いて、言う術もどうする術もなく、知らせだけを聞いてじっとしていられずに
僕の恋する千分の一でも慰められるだろうと妻がいつも出て見ていた軽の市に僕も立って聞いてみると、美しい襷をかけるような畝傍の山に鳴く鳥の声も聞こえず、玉鉾の道を行く人も一人として妻に似た人は行かないので、しかたなく妻の名を呼んで魂よ帰っておいでと袖を振ったことです。
歌碑には「わが恋ふる」からの部分が書かれています。
この妻はなんらかの理由で人に知られないように持つ「隠妻(こもりづま)」だったらしく、人に知られないようにと妻の家に頻繁に通わずにいた内に亡くなってしまったようです。
そんな「亡くなった妻にもう一度逢いたいと軽の市に立ってはみたけれど、畝傍の山に鳴く鳥の声も聞こえず、妻によく似た人すら通らないので、妻の名を呼んで袖を振ったことです。」と、なんとも切ない思いが詠まれています。
牟佐坐神社
歌碑のある牟佐坐神社の御祭神は高皇産霊命と孝元天皇です。境内は孝元天皇の即位された宮地と伝えられています。
石段と二の鳥居
拝殿
身狭(=牟佐)は大和国高市郡の地名で、東漢氏の本拠地とされています。
創始は安康天皇の時代に、渡来人の身狭村主青が生雷神を祀ったのが始まりとされています。 『延喜式』神名帳には大社とあり、古くは有力な神社だったようです。
孝元天皇軽境原宮跡伝承地の石碑
踏切を渡った向こう側に孝元天皇の「軽境原宮(かるのさかいはらのみや)」跡伝承地石碑が建っています。
この辺りは「軽の市」という市場が設けられ賑わっていました。その軽に柿本人麻呂の妻が住んでいたようです。
妻の名を呼びながら、涙を流して袖を振る人麿の姿が目に浮かぶような哀しい歌です。情緒豊かな人だったのだろうと思います。
牟佐坐神社へのアクセス
奈良県橿原市見瀬町718
こちらの記事では、柿本人麻呂のもう一つの「泣血哀慟歌」をご紹介しています。
二つの歌で詠まれている「妻」は、それぞれ別の女性とされています。
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