マップを見ながら古代の史跡をめぐるのが好きなみくるです。
今回は橿原市観光協会さんの観光パンフレット「橿原まちあるきまっぷ~石川池周辺を歩く」に掲載されている「和田廃寺」をご紹介します。

➡橿原市の史跡を巡る【石川池周辺を歩く】橿原神宮前駅~石川池(孝元天皇陵)
橿原市「和田廃寺」は古代ロマンの宝庫!
水田に浮かぶ不思議な「土壇」
橿原市和田町の住宅地の北端に「大野塚」と呼ばれる土壇があります。和田廃寺はこの「大野塚土壇」を中心とする寺院跡です。
お寺の本当の名前はわかりませんが、和田町にある寺院の跡であることから、和田廃寺と呼ばれています。

発掘調査では7世紀後半の塔跡(「大野塚部分」)や寺院前身建物が検出されています。
出土瓦から7世紀前半から後半の建立と推定されています。
➡飛鳥資料館/飛鳥の寺/和田廃寺
聖徳太子建立七大寺の一つ「葛木寺」
大野塚土壇は、敏達14年(585年)に蘇我馬子によって建てられた「大野丘北塔」とされてきましたが、最近では、この地域に勢力を持っていた葛木(かつらぎ)氏の氏寺、「葛木寺」の跡ではないか、という説が有力になってきています。
葛木寺(かつらぎじ)は、聖徳太子建立七大寺の一つに数えられています。
ただし、実際に聖徳太子自身が全てを建立したわけではなく、太子が深く関わった、あるいは太子ゆかりの人々によって建てられたものも含まれています。しかし、伝承として聖徳太子とのゆかりが深く、古代史において重要な位置を占める寺院群であることは間違いありません。
ここに重要な大寺が建っていたと考えると、さらにロマンが深まります。
藤原京との関係は?歴史の空白を埋めるヒントに
和田廃寺は藤原京でいうと、右京十一・十二条一坊にあり、寺の東側を朱雀大路が通る位置関係にあります。

和田廃寺の周辺は、日本最初の本格的な都である藤原京のエリアにもかかっています。
藤原京には、都のメインストリートである「朱雀大路」があったはずなのですが、和田廃寺のあたりではまだ確認されていません。
こちらは、発掘調査で確認されている朱雀大路跡です。

「ここに朱雀大路は造られなかったのかな?」とか「いや、まだ見つかってないだけ?」とか、色々な想像をかきたてられます。
この小さな土壇が、藤原京の都市計画を解き明かすための重要な手がかりになるかもしれないと思うと、土壇が特別なものに見えて来ました。
大野丘北塔はわが国最初の仏塔!?
和田廃寺が建っていたから朱雀大路を通すことができなかったのだとすれば、それだけ力を持っていたお寺だったのではと推測できます。
塔跡が検出された土壇が「大野塚」と呼ばれていたことから、蘇我馬子が建てたという「大野丘北塔」の有力な候補地とする説が、石田茂作氏(昭和11年『飛鳥時代寺院址の研究』)など、古くからありました。
「大野丘北塔」の記述は『日本書紀』に見られます。
百済から仏教が伝わり、鹿敏達天皇13年(584年)、蘇我馬子は石川の自宅に仏殿をつくりました(石川精舎)。
このことを『日本書紀』は「仏法の初め、玆より作れり」と記します。
石川精舎跡と伝わる「本明寺」をこちらの記事でご紹介しています。
翌年、馬子は大野丘の北に塔を建て(大野丘北塔)、司馬達等から譲り受けた仏舎利をおさめています。大野丘北塔は、わが国最初の仏塔であった可能性が高いのです。
仏教を中心に国をまとめようとしていく中で、「わが国最初の仏塔」が建っていた地なので、朱雀大路を通すことができなかったのでは、と考えたりもしました。
飛鳥時代始まりの地「豊浦寺跡」
百済より仏教が初めて公に伝わった時に、賜った仏像を祀るために蘇我馬子が向原の家を清めて寺とした「豊浦寺」についても当ブログにてご紹介しています。
和田廃寺へのアクセス
奈良県橿原市和田町378
橿原神宮前駅より徒歩20分です。
駐車場はありませんが、のどかな道を散策しながら向かうのがおすすめです。
こちらの記事で石川池周辺の史跡をまとめてご紹介しています。
最後までお読み頂きありがとうございます。