橿原市の史跡を巡る【和田廃寺】大野丘北塔?葛木尼寺?~石川池周辺を歩くその7

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マップを見ながら古代の史跡をめぐるのが好きなみくるです。

今回は橿原市観光協会さんの観光パンフレット「橿原まちあるきまっぷ~石川池周辺を歩く」に掲載されている「和田廃寺」をご紹介します。

橿原まちあるきまっぷ~石川池周辺を歩く

橿原市の史跡を巡る【石川池周辺を歩く】橿原神宮前駅~石川池(孝元天皇陵)

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和田廃寺

大野塚土壇を中心とする寺院跡

橿原市和田町の住宅地の北端に「大野塚」と呼ばれる土壇があります。和田廃寺はこの「大野塚土壇」を中心とする寺院跡です。

お寺の本当の名前はわかりませんが、和田町にある寺院の跡であることから、和田廃寺と呼ばれています。

和田廃寺

発掘調査では7世紀後半の塔跡(「大野塚部分」)や寺院前身建物が検出されています。

出土瓦から7世紀前半から後半の建立と推定されています。
飛鳥資料館/飛鳥の寺/和田廃寺

大野丘北塔?葛木尼寺?

大野塚土壇は敏達14年(585年)に蘇我馬子によって建てられた「大野丘北塔」とされてきましたが、最近では聖徳太子建立の七大寺の一つである「葛城寺(葛木尼寺)」と考えられるようになっています。

和田廃寺は藤原京でいうと、右京十一・十二条一坊にあり、寺の東側を朱雀大路が通る位置関係にあります。

和田廃寺周辺地図

発掘調査で確認されている朱雀大路跡です。

朱雀大路跡

和田廃寺周辺の調査では、朱雀大路は今のところ確認されていません。
和田廃寺の部分には造られていなかったのか、まだ見つかっていないだけなのかと考えられています(和田廃寺/橿原市公式ホームページ )。

大野丘北塔はわが国最初の仏塔!?

和田廃寺が建っていたから朱雀大路を通すことができなかったのだとすれば、それだけ力を持っていたお寺だったのではと推測できます。

塔跡が検出された土壇が「大野塚」と呼ばれていたことから、蘇我馬子が建てたという「大野丘北塔」の有力な候補地とする説が、石田茂作氏(昭和11年『飛鳥時代寺院址の研究』)など、古くからありました。

「大野丘北塔」の記述は『日本書紀』に見られます。

百済から仏教が伝わり、鹿敏達天皇13年(584年)、蘇我馬子は石川の自宅に仏殿をつくりました(石川精舎)。
このことを『日本書紀』は「仏法の初め、これよりおこれり」と記します。

石川精舎跡と伝わる「本明寺」をこちらの記事でご紹介しています。

翌年、馬子は大野丘の北に塔を建て(大野丘北塔)、司馬達等から譲り受けた仏舎利をおさめています。大野丘北塔は、わが国最初の仏塔であった可能性が高いのです。

仏教を中心に国をまとめようとしていく中で、「わが国最初の仏塔」が建っていた地なので、朱雀大路を通すことができなかったのでは、と考えたりもしました。

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飛鳥時代始まりの地「豊浦寺跡」

百済より仏教が初めて公に伝わった時に、賜った仏像を祀るために蘇我馬子が向原の家を清めて寺とした「豊浦寺」についても当ブログにてご紹介しています。
飛鳥時代はここから始まった!【推古天皇の豊浦宮】豊浦寺跡(向原寺)

豊浦寺跡(向原寺)

和田廃寺へのアクセス

奈良県橿原市和田町378

駐車場はありません。
橿原神宮前駅より徒歩20分です。

こちらの記事で石川池周辺の史跡をまとめてご紹介しています。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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