里中満智子さんの『天上の虹』がきっかけで古代史に興味を持ったみくるです。
今回は兵庫県内唯一の天皇陵である「淳仁天皇陵」をご紹介します。
第47代淳仁天皇は奈良時代の天皇です。
淡路島唯一の天皇陵「淳仁天皇陵」
淳仁天皇
淳仁天皇のことは、里中満智子さんの『女帝の手記 孝謙・称徳天皇物語』で知りました。
『女帝の手記 孝謙・称徳天皇物語』は聖武天皇と武天皇と光明皇后の間に生まれた娘、阿倍内親王が自分の生涯を語るという形式で描かれた物語です。
阿倍内親王は聖武天皇の後を継いで即位したのち(孝謙天皇)、大炊王(淳仁天皇)に譲位しました。大炊王は舎人親王の第七皇子で、藤原仲麻呂の後ろ盾を得て即位しました。
その後、藤原仲麻呂の乱が起こりますが失敗に終わり、仲麻呂は亡くなりました。淳仁天皇は「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、天平宝字8年10月14日(764年11月11日)、親王の待遇をもって淡路国に流されました。
淳仁天皇の廃位によって孝謙上皇は皇位に復帰しました(称徳天皇)。
淡路国に流された廃帝(淳仁天皇)は逃亡を図るが捕まり、翌日に崩御しました。公式には病死によると伝えられているが、実際には暗殺されたと推定され、葬儀が行われたことを示す記録も存在していません。敵対した称徳天皇の意向により長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていましたが、『新唐書』日本伝では「大炊」、『宋史』日本伝では「天炊天皇」と記されて歴代に加えられています。
淳仁天皇 淡路陵
淡路国に配流された淳仁天皇の陵墓は、宮内庁により兵庫県南あわじ市賀集にある淡路陵に治定されています。兵庫県内唯一の天皇陵です。
記録では、淡路国三原郡(現在の兵庫県南あわじ市の天王森丘とされる)に造営されたといいます。
淳仁天皇は、ずっと「淡路廃帝」という呼び方をされ、明治時代になってようやく淳仁天皇という漢風諡号が付けられました。歴代の天皇として認められていなかったケースも多かったということなので、その陵墓は小さく簡素なものなのかもと想像していたのですが、立派なものでした。
『女帝の手記 孝謙・称徳天皇物語』では、淳仁天皇は配流された淡路島で謀反を企てたことにされ、暗殺されました。実際の所は分かりませんが、皇位を巡る争いに巻き込まれた気の毒な天皇という印象を持っています。
当麻夫人墓(大夫人山背 淡路墓)
淳仁天皇陵のすぐ南側に淳仁天皇の生母の陵墓があります。
淳仁天皇の生母、当麻山背は当麻老の娘で、舎人親王の后です。
当麻山背は、淳仁天皇に従って淡路島に渡りましたがその後の消息は不明です。『続紀』巻第三十五によると、光仁天皇の代になって、778年(宝亀9年3月)その墓は「御墓」と称され、淡路公の墓も「山陵」と改称されたといいます。
宮内庁により「大夫人山背 淡路墓」に治定されています。こちらは拝観できなかったのですが、立派な陵墓のようです。
母親も一緒に暗殺されたのでしょうか…。奈良から遠く離れた淡路島で、母子一緒にひっそりと眠られていました。
淳仁天皇陵(淳仁天皇 淡路陵)へのアクセス
兵庫県南あわじ市賀集
最後までお読み頂きありがとうございます。