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【日本書紀の足跡を旅する】即位・治世編:黄金の輝きと、はじまりの地・橿原

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生まれも育ちも奈良県で、今は橿原市に住んでいるみくるです。

前回は、神武天皇が日向から幾多の困難を乗り越え、大和の入り口である宇陀や忍坂へと辿り着くまでの「東征」の道のりをご紹介しました。

第2回となる今回は、いよいよ物語のクライマックス。宿敵・長髄彦(ながすねびこ)との決戦に現れた「金の鵄(とび)」の奇跡、そして「日本はじまりの地」である橿原宮での即位を紐解きます。

私が暮らす橿原の街を見渡せば、市章やモニュメント、そして空にそびえる「ミグランス」など、至る所にあの黄金の輝きの記憶が息づいています。それは単なる遠い神話ではなく、今もこの地に流れ続ける確かな鼓動のようです。

一人の武人として知略を尽くし、一人の夫として最愛の女性と出会い、そして初代天皇として平和への祈りを捧げた神武天皇。

建国の聖地に刻まれた、壮大なドラマの続きを一緒に辿ってみましょう。

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初代・神武天皇「記述編」黄金の鵄と建国の物語(後編)

金の鵄(とび)の飛来:闇を払った黄金の奇跡

大和盆地へと入った神武天皇を待っていたのは、宿敵・長髄彦(ながすねびこ)との激しい決戦でした。

連なる戦いに軍勢は疲れ果て、にわかに空はかき曇り、冷たい雨が降り注ぎます。視界さえも遮られる暗闇の中、誰もが「もはやこれまでか」と息を呑んだその瞬間、奇跡は起きました。

「忽(たちまち)に霊(あや)しき鵄有りて、飛び来りて皇弓(みゆき)の弭(はず)に止まれり。」
(突如として不思議なトビが飛んできて、天皇の弓の先に止まった。)

そのトビの体は黄金色にまばゆく輝き、まるで稲光のように周囲を照らし出しました。

神武天皇と黄金のトビ

そのあまりの神々しさに、敵の兵たちは目を眩ませ、戦う力を失ってしまったと『日本書紀』は伝えています。

この「金の鵄」の導きこそが、長く苦しい戦いに終止符を打ち、平和な国造りへと向かう決定的な転換点となったのです。

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現代の街に舞い降りた「ミグランス」

この1300年以上前の輝きは、今も私たちの住む橿原の街に、確かな形となって生き続けています。

近鉄大和八木駅の南側にそびえ立つ、橿原市役所分庁舎などの複合施設「ミグランス。 その愛称は、トビの学名である『Milvus migrans(ミルヴス ミグランス)』から名付けられました。

橿原市役所分庁舎などの複合施設「ミグランス」

日本のはじまりの地」である橿原を象徴し、新しい時代へ羽ばたいていく――。

私がこのビルの横を通るたびに感じるのは、古代の伝説が単なる「過去の遺物」ではないということです。市章にデザインされたトビの姿や、市内に点在する5カ所のモニュメントを見上げるたびに、あの時、弓の先に止まった黄金の光が、今も私たちの未来を照らしているように思えてなりません。

橿原市内にあるトビのモニュメント

暗闇を払い、進むべき道を示した金の鵄。 その光は、今もこの街を見守るように、空高く舞い続けているのです。

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武人としての知略:磐余での勝利と平和への決断

金の鵄の導きによって戦況は大きく変わりましたが、神武天皇はただ武力で押し通すことはしませんでした。そこで重要になるのが、桜井の地に立つ「磐余邑(いわれむら)顕彰碑」が語る物語です。

神武天皇磐余邑顕彰碑

天皇は磐余の地に拠点を置き、智略を尽くして大和の有力豪族を破ります。そしてついに、長髄彦が奉じていた天神の子・饒速日命(にぎはやひのみこと)が、天皇の徳を認めて帰順。

【巡礼の記憶:磐余邑顕彰碑】
桜井市にあるこの碑は、まさに「戦略の舞台」。ここで天皇が下した決断の一つひとつが、戦いを終わらせ、建国へと繋がっていきました。武人としての厳しさと、平和を見据えた冷静な眼差しがこの地には刻まれているようです。
神武東征のドラマ【神武天皇 磐余邑顕彰碑】勝利の裏にあった知略の決断とは?

ここに、長きにわたる東征の戦いは、真の意味での終結を迎えたのです。

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一人の夫として:狭井川のほとりで見つけた安らぎ

国を定めた天皇が次に求めたのは、共に歩む生涯の伴侶でした。戦乱が落ち着き、ふと見せた一人の男性としての素顔。そのロマンスの舞台が、山の辺の道に流れる狭井川(さいがわ)です。

狭井川

天皇は、七人の美しい乙女たちが遊ぶ中で、一際輝く媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)に出会います。

【巡礼の記憶:狭井川と出雲屋敷 / 狭井河之上顕彰碑】
川のほとりに咲くササユリのような、清らかで美しい出会い。既存の記事でもご紹介した「出雲屋敷」の伝承や、山の辺の道ののどかな風景を歩くと、戦いの中にあった天皇がようやく見つけた「心の安らぎ」が伝わってくるようです。 この地はまさに、建国という大きな物語の中に咲いた、一輪の花のような「ロマンスの舞台」なのです。
山の辺の道を歩く【狭井川と出雲屋敷】神武天皇と皇后の出会いの物語
神武天皇を支えた大物主神の力【狭井河之上顕彰碑】絶体絶命の危機を救った神託の地

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日本の夜明け:橿原宮での即位

そして、ついにその時が訪れます。 九州の日向を発ってから数年。天皇は、畝傍山(うねびやま)の東南、もっとも平穏で美しい橿原(かしはら)の地を、新しい国の中心と定めました。

畝傍山

『日本書紀』には、辛酉(かのとのとり)の年の正月元旦、天皇が橿原宮で初代天皇として即位されたことが記されています。

「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)とせむ」
(世界を一つの家族のように平和な場所にしよう)

この壮大な理想とともに、日本の歴史がここから動き出しました。私が今暮らすこの橿原の空気の中に、当時の人々の歓声と、新しい時代への希望が今も溶け込んでいるように感じます。

【巡礼の記憶:磐余神社】
橿原市内にある磐余神社。かつてこの地を駆け抜けた神武天皇を祀るこの古社を訪れると、ここが間違いなく「はじまりの地」であったことを、静かな風が教えてくれます。
真菅の地に神日本磐余比古命(神武天皇)を祀る古社【磐余神社】

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王としての祭祀:鳥見山に捧げた建国の誓い

無事に即位を遂げた神武天皇が次に行ったこと。それは、これまでの苦難を支え、導いてくれた天の神々への深い感謝でした。

即位から四年。天皇は桜井にある鳥見山(とみやま)に霊畤(まつりのにわ)を立て、皇祖天神を祀ります。これを「鳥見山中霊畤(とみやまのなかのれいじ)」と呼びます。

鳥見山中霊畤

【巡礼の記憶:鳥見山中霊畤と顕彰碑】
等彌神社の裏山、息を切らして登った先にあるこの祭場は、まさに「感謝の舞台」です。 天皇がここで捧げたのは、自らの力を誇る言葉ではなく、平和への祈りでした。この地を訪れると、建国の本質とは武力ではなく、生かされていることへの感謝と、人々が共に手を取り合う「和」の心であったことに気付かされます。
神武天皇建国の聖地【鳥見山霊畤】等彌神社から登拝する古代祭祀の道
神武天皇建国の聖地【鳥見山中霊畤顕彰碑】日本最初の大嘗祭が行われた「まつりのにわ」

結びに:今も街に響く「建国の鼓動」

戦いの場であった「磐余邑」、恋の花が咲いた「狭井川」、そして感謝を捧げた「鳥見山」。 これら桜井の聖地を巡り、最後に行き着くのが、私たちが暮らすここ「橿原」です。

神武天皇が目指した「八紘(あめのした)を宇(いえ)とする」という理想。それは、かつて弓の先に止まった「金の鵄」の輝きのように、今も私たちの街の未来を照らし続けています。

ミグランスを見上げる時、あるいは静かな神社に参拝する時。ふとした瞬間に、1300年前の「はじまりの瞬間」が、すぐそばにあることを感じてみてください。

古代の天皇たちが歩んだ足跡は、決して過去のものではなく、今の私たちの足元へと、ずっと繋がっているのです。

建国の舞台を歩く―次章は「宮跡(みやあと)編」へ

ここまで前後編にわたり、『日本書紀』の記述をもとに神武天皇の壮大な旅路を辿ってきました。

物語としての東征・建国を知ることで、いつもの見慣れた風景も、少し違った色に見えてくるのではないでしょうか。

次回は、シリーズ第2弾として【宮跡(みやあと)編】をお届けします。

実際に「神武天皇ゆかりの地」を訪ね歩き、私が撮影してきた現地の写真とともに、今の橿原や桜井に息づく聖地の空気感をご紹介します。

ミグランスの展望フロアから眺める大和三山や、窓に描かれた「金の鵄」の秘密、そしてひっそりと佇む巨大な「神籠石」……。
記述の世界を飛び出し、現代の風の中に神話の足跡を探す旅へ。どうぞ楽しみにしていてくださいね。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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