景色を楽しみながら歌碑を訪ね歩き、いにしえの歌人の思いに触れるのが好きなみくるです。
日本最古の道「山の辺の道」には38基もの歌碑が建てられています。全部を見つけたいと思っています。
今回はこちらの中から、1番の柿本人麻呂の歌碑をご紹介します。
石上神宮に建つ柿本人麻呂の万葉歌碑
柿本人麻呂の歌碑は、奈良県天理市の布留町に鎮座する石上神宮の社号標の近くに建っています。
大鳥居の手前の左手です。
こちらの記事では、石上神宮の見どころをご紹介しています。
昭和43年4月の建立で、石材は旧内山永久寺の北門跡にあった敷石が用いられています。高さ2.3メートル、横巾は1.4メートルとなっています。
歌碑の文字は、『元暦校本万葉集』から採られました。
『万葉集』の原文が刻まれています(『万葉集』の和歌は全て漢字(万葉仮名)で書かれています)。
(題詞)
柿本朝臣人麿の歌三首
(原文)
未通女等之 袖振山乃 水垣之
久時従 憶寸吾者
巻4-501 柿本人麻呂
(読み下し)
未通女等が 袖布留山の 瑞垣の
久しき時ゆ 思ひき吾は
(現代語訳)
乙女が袖を振る、そのふると名も同じ布留山の古くより神様をまつる瑞垣のように、長い間あなたことを思ってきたよ、わたしは。
この歌は柿本朝臣人麿の詠んだ歌とされる三首のうちの一首です。
袖を振るから、布留山を導いています。布留山は、石上神宮周辺の杜を指しています。瑞垣は、神社の垣根を言いますが、この歌では神代ほどの昔から、ということを言っているのでしょう。
想い人への切ない恋心を技巧も交えて詠った人麻呂らしい一首です。
この歌に続く二首も合わせてご紹介します。
(原文)
夏野去 小壮鹿之角乃 束間
毛妹之心乎 忘而念哉
巻4-502 柿本人麻呂
(読み下し)
夏野ゆく 牡鹿の角の 束の間も
妹が心を 忘れて思へや
(現代語訳)
夏野をゆく牡鹿の角が生え変わるまでの束の間も君への思いを忘れたことなどありません。
「牡鹿」はオスの鹿のことで、鹿の角は夏に生え変わるので、「夏の牡鹿の角が生え変わるまでの束の間も…」と、束の間のわずかな時間ですらも君への思いを忘れたことがないと詠んでいます。
(原文)
珠衣乃 狭藍左謂沈 家妹尓
物不語来而 思金津裳
巻4-503 柿本人麻呂
(読み下し)
珠衣の さゐさゐしづみ 家の妹に
物言はず来にて 思ひかねつも
(現代語訳)
美しい絹の衣のようにさらさらと心が重く沈み込んでいたので家の妻に声も掛けずに来てしまったよ。妻のことが思い出されて仕方がない。
「珠衣」はこの場合は絹の衣のことで、重く沈み込む手触りがあることから、心の沈み込んでいた状態の譬えとして使われています。
そんな沈んだ心でいたために、妻に声も掛けずに出てきてしまったと、今さらながらに後悔して妻を愛しく思い出して詠んだ歌です。
人麻呂の愛情深さが感じ取れる一首です。
石上神宮と内山永久寺
柿本人麻呂の歌碑の「石材は旧内山永久寺の北門跡にあった敷石が用いられています」とありましたが、石上神宮と内山永久寺は深い繋がりがあります。
鏡池とワタカ
鏡池は、江戸時代の絵図から往古には「石上池」と呼ばれていたことが知られます。この池には、奈良県の天然記念物に指定されているワタカという魚が生息しています。
ワタカは我が国特産の鯉科の淡水産硬骨魚で、体は細長くてひらたく、頭は小さく眼は大きく、体色は背部が緑青色である他は銀白色です。別名を「馬魚」といいますが、その由来については次の様な伝説があります。
南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に御潜幸になる途中、内山永久寺の萱御所に入御せられました。
その時、天皇のあとを追って赤松円心等の軍勢も当神宮の辺に到着し、軍馬がしきりに嘶きました。天皇の御乗馬がこれに応じて嘶こうとしたため、天皇の従者は円心等にさとられるのを憂い、御乗馬の首を斬って本堂前の池に投じました。
その後、本堂池に草を食べる魚が住みつくようになり、人々はこれは御乗馬の首が魚になったのだと考え、「馬魚」と呼ぶようになったと伝えられています。
石上神宮の鏡池のワタカは、大正3年に内山永久寺跡の本堂池から移したもので、この時に東大寺中門前の鏡池にも移されています。
摂社 出雲建雄神社拝殿
摂社 出雲建雄神社拝殿は、元来は内山永久寺の鎮守の住吉社の拝殿でしたが、大正3年に現在地に移築されました。
内山永久寺は、鳥羽天皇の永久年間(1113~18年)に創建された大寺院でしたが、神仏分離令により明治9年に廃絶しました。
その後も鎮守社の住吉社は残されましたが、その住吉社の本殿も明治23年に放火によって焼失し、拝殿だけが荒廃したまま残されていたので、石上神宮摂社の出雲建雄神社の拝殿として移築されました。
この建物は内山永久寺の建物の遺構として貴重なもので、国宝に指定されています。建立年代については、はじめは保延3年(1137年)に建立され、その後13・14世紀に2回の改築により現在の構造・形式になったと考えられています。
内山永久寺跡の松尾芭蕉の句碑
内山永久寺跡に建つ松尾芭蕉の句碑も、石上神宮の柿本人麻呂の歌碑と同じく、旧内山永久寺の石が使われています。
内山永久寺の旧境地内には建物はなにひとつ遺っていませんが、石上神宮でその隆盛を伺い知ることができました。
廃仏毀釈の悲しい歴史に加え、後醍醐天皇の愛馬が亡くなってワタカとなったお話を知り、一層侘しさが募りました。
内山永久寺跡についてはこちらの記事でご紹介しています。
石上神宮へのアクセス
奈良県天理市布留町384
公共交通機関をご利用の場合
- 近鉄天理線、JR桜井線「天理駅」より徒歩30分
- 天理駅より 天理市コミュニティバス「いちょう号」(東部線)下山田系統
「石上神宮前」バス停下車、徒歩10分
お車をご利用の場合
- 名阪国道「天理東インター」から約5分
- 西名阪自動車道「天理インター」から約15分
4か所に無料駐車場があります。
詳しくは石上神宮の公式サイトをご覧ください。
石上神宮外苑公園の万葉歌碑
こちらの記事では、古くは石上神宮の境内に数多く繁茂していた神杉を詠んだ万葉歌をご紹介します。歌碑は、石上神宮の南側の神宮外苑公園に建っています。
観光パンフレット「山の辺の道」に掲載されている「山の辺の道の歌碑」の2番の歌碑です。
最後までお読み頂きあがとうございます。